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覚書 テレビ番組「プレミアムドラマ」

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12月のNHK、BSプレミアムドラマで「書家 金澤翔子さん」の番組を見ました。 「お母さま、しあわせ? 母と娘の・・・」という題が付いたいわゆるドキュメンタリードラマです。他にあと2話あって、かつて一世を風靡した故「ナンシー関」という消しゴムで作ったスタンプで芸能評論みたいな表現をしていた女性のものと、もう1話は沖縄の離島でドクターヘリを継続している現役の医師の話。 全部とてもおもしろくて感動できました。 なんか制作陣の気合いが入っていて、気持ちよかった・・・そういうのって見る側に伝わると思う。 で、その中の1話 彼女はダウン症を持っていて、ダウン症の…と言われることが多いのですが、今や「書家」として立派な表現者のひとりであり、他のダウン症の人々も感性がたぶん、普通と言われる人々よりもすぐれていると思われます。 ただ、表現する技術を学ぶチャンスが少ないので、まわりの人たちがそれを上手に作ってくれないと表現することは難しいのだと思います。 それはたぶん、翔子さんのお母さんのように、ほんとうに彼女を愛している人にしか出来ないような「忍耐」と「ある種の厳しさ」が必要なことです。 それは、親が子どもを育てるということの原点であるような気もします。 お母さんはたぶん、子どもより先に肉体を失うわけで、そうなったときに子どもが、まわりの人から尊敬される・・・人として扱われる・・・ような人に育てることが親としての役割だろうから。 思うに13番染色体の、1本多い1本は、現代に生きるわたしたちが「途中で失ったもの」なのかもしれません。 ダウン症のひとたちは「天使のよう」という表現をされるように、「思いやり」があって、感性が豊かです。それはたぶん、人類が本来生物として持っている古い脳の部分であり、情報処理のための新しい脳を発達させるためには「余分」な「制御装置」なのかもしれません。 現代人は、出生前診断と言われる「科学技術」で、それを思い出す縁すら断ち切ろうとしている・・・ そんなことを考えさせられる番組でした。 たぶん、制作意図のひとつだろうけど、他のダウン症の人たちが、表現の方法を獲得するチャンスになってくれればいいな。

解離性くも膜下出血と後遺症②

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病院で意識を回復したとき、体のどこも動きませんでした。 呼吸は苦しく、首も曲がったまま。痛みは感じなかったか、覚えていません。声もほとんど出ませんでした。 そのときの記憶は、とても漠然としています。 夢かうつつか、という感じで、たぶん見舞いに来てくれた人だと思うけれど、ときどき知人も登場しました。カーテンやシーツの印象でしょうか、雪景色の中に何か自然の展示をしたような気がしました。計器のモニターでしょう、蛍光色の緑や赤が光っている機械も見た気がします。扉が開く音が猫の声に聞こえたり、耳や目から入る情報を「使えない脳」で必死に分析していたのだろうと思われます。そして、いつからかそれは病院のドキュメンタリーになっていました。 今から思うに、たぶん自身の持っている情報の中から、大好きだった海外ドラマの「ER」(緊急救命室)をあてはめたのでしょう。自分に起こったことが理解できない、というより受け入れ難くて、客観視していたのだろうと思います。 夢とうつつの境目がなく、意識のある状態を維持できないために、わたしの言動はかなり変だったのでしょう。まわりの人たち(医療機関のスタッフとか)は「頭のいかれちゃった人」という感じだったんでしょうね。でもね、そのときの記憶はたしかにすべてつながってはいないけど、うれしかったことや悲しかったこと、つらかったこと、など印象に残ることは全部記憶に残っています。 これは「老化」による認知症といわれる人たちにも当てはまると思います。 「手当」といわれるように、人の手がもたらす安心感や温かさ。また「抑制」とよばれる手脚の束縛の悲しさ、辛さ。辛辣な言葉のショック。でも、「せっかく助けてもらった命」「自分の命は自分で守らなくちゃ」動けない身体的な辛さよりもそちらの方が自分にとっては良い体験だったのかもしれません。 今までどんなに恵まれていたか、やりたいことが何でも出来て、子どもの頃の夢がみんな叶ったこれまでの人生はしかし、すべて自分で作ったわけではなく。まわりの人たちや環境によって出来ていたのだ、という当たり前のことに感謝していないばかりでなく、気づいてもいなかった訳です。あのまま死んでいたら、たぶん気づかないままだったでしょう。脳が壊れて、感性だけが残っている状態で、他人の手の暖かさと、厳しさを同時に感じる体験は、わたしにと

解離性くも膜下出血と後遺症①

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一年半が経ってようやく、自分の身に起きたことの全貌が見えてきました。 昨年の7月18日・・・救急搬送で近所の脳外科へ記憶はないので、あとから家族や友人たちから聞いたのですが。 その前日、7月17日は東京で「いきものつながりアート展」のためのミーティングが予定されていたようなのですが、ひどい頭痛で行けないという電話をしていたらしいです。で、その日に脳外科を受診。 CTスキャンを受けて痛みどめをもらい、帰宅したようでした。 動脈瘤ならばCTに写るらしいのですが、解離(解離性動脈瘤とも言うらしい)の場合はひび程度なので造影剤を使うか予約が必要なMRIでないと画像診断出来ないらしく、いわゆる救急外来での検査ではわかりにくいようです。 最近、その日受診することを決めたらしい血圧の測定値を発見したのですが、上が160となっていました。(血圧もコレステロールも低めだったので、平時の血圧は120前後)つまり、画像や血圧からは血管が裂ける可能性は見つからないということです。 じつは前兆として下肢の痛みや船酔いのようなめまいと、シャワーみたいな耳鳴りが一緒に起こるというのがあって、整形外科でレントゲンを撮ってもらったり、耳鼻科で検査をしてもらって「メニエール様症候群」と言われたりしていました。 それが3月ころからあった記憶があります。 そして、7月半ばまでに、その年の秋に向けて農家にパンジー種子を発送する、5月末決算のため、年度末の出納帳をパソコンに打ち込む、と年間行事のうちもっとも厳しい仕事をようやく終了した直後でした。 今考えると4,5月に犬たちを送り、4~7月は美大の講師で週に3回は東京に通っていたので事務仕事や交配・種子の整理はどうしても夜中になってしまい、慢性的に寝不足でしたね。おまけに保護司をしていたので、その合間に会合や面接、報告書の作成など何かがあって、休息する時間が全くありませんでした。 犬が元気なときは手がかかってもそれがストレス解消になったのですが、その犬が相次いでなくなり、それもストレスになってしまったと思われます。 で、受診の翌日、朝起きてこない・・・けれどあまり寝てないからもう少し起こさないでおこう・・・昼近くなってスタッフが見たらどうもおかしい・・・救急車 となったわけです。

先祖から受け継いだ記憶

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日常はそのほとんどが「慣れ」で出来ている。 「慣れ」は学習とも置き換えられ、生後その環境から習得する。 姿形は遺伝子という形骸的な伝達で決まるが、それは形だけのことなので肉体は言わば器。中身は記憶も含めて確かに伝わるのだが、それは器の遺伝子ということでなく、種として地球で経験したことも含めた記憶を、生命すべてがひとつずつ持っている、「魂」といわれるものの中に。 臨死体験後の自身の経験により、これは「量子」と呼ばれるものではないかと想像する。(勘違いかもしれないが、ミラクルで与えられた情報) それは、地球という生命体が最初から持っているもので、絶対数は決まっている。 「器」としての肉体には寿命があって、それぞれほぼ決まっているが、「量子」には決まった寿命はなく、記憶は重なってゆく。 脳で言えば「辺縁部」のごく古いところにそれはあり、「器」の経験が事故などで消えてしまったとき、活性化する。 「種としての古い記憶」そのとき、人は確かに自然の、ある一部であり、自然界で特定の役割を持った複雑なタペストリー(織物)の大切な部分である自覚があったと思われる。それは一部であって、全部である。つまり、宇宙の法則。すべては同じ種類の「量子?」で、もとは一つである。そして、安定した状態で継続するために多様性(バリエーション)をめざし、それを「織物」(曼荼羅)にすることによって、どんな事態にあってもどれかが生き残り、またバリエーションを増やせるということがみんなの目的。そして、元がひとつだから、共感や共振を「幸福」と感じる。共通の手段は「感」でわかるもの。すなわち、音や光、色や形。 「美しい」という認識も。鳥や昆虫、植物にも意志がある。鉱物は生命の基準から言ったら動かないし、魂がないというふうに感じるが、彼らも長い時を経て結晶になったり生成したりする。つまり人の一生くらいの間に動きは見えないけれど。(宮澤賢治は鉱物にも命があると考えたらしい・・・その美しさに人は惹かれる)人類はその脳の新しい部分で、「考える」ということに執着し、「感じる」ということを忘れてしまったのかも。けれども、地球上で生命として生きてゆくためには、それをとりもどさなくては。このリハビリは相当厳しいけど。 そうしないと、人間やめる前に、生物をやめることになる。そうかといって「神」になれるわ

番外編 宇宙の真理

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早朝、4時から5時。 ふと目覚めてつらつらいろんなことを考える。 体はまだ寝ているけれど、脳は目覚めていて、生活のためには働いていない時間帯。 そもそも時間軸というのは、地球にとって太陽と月が織りなす循環そのものではないか? それによって、生物にとっての安定した環境を生物みんなでタペストリーを織るがごとく作っている・・・隙間なく、決まった数のごく小さな量子が、一個から数億までの細胞の集団である「肉体」をまとって、それを互いにやりとりすることで循環させて繋いでゆくこと。 それがすなわち生きるということで、その循環において「死」は別のものの生へと転換される・・・ 人類はそも、唯一循環を阻害することで自分だけ生きようとしているような気がする。それはとても癌細胞に似ている・・・ たぶん、循環することで生きている自身を忘れてしまって、、阻害することで生きようとする、という所作はまさしく癌細胞ではないか? この考えは以前から漠然と持っていたのだが、臨死体験はそれを顕在化したと思う。人生もともと50年、その間に生物としての人は次世代を育て、様々な経験をして一生を終えるのだ。まれにそれ以後も生き続ける人がいて、そういう人は「長老」として敬われ、人々をよりよい方向へ導く。 現代は・・・ 長生きした老人は疎んじられ、その智慧は封印される。 そしてこどもたちのための未来は?いままでのひとびとの負の遺産で満たされてしまったのか? う~ん、おとなの務めはあきらめないこと。 利己とはもちろん、生きるためには他の命をいただかなくてはならない。それは利害?循環そのものが利害なのか? 利他と利己、利己のための所作は利害となり、利他のための所作は? 禅問答だね、これは。 生物がみんなでタペストリーのように環境を編むということは、それが生物みんなにとって、この宇宙で生命として生き続けるための唯一の方法だから。 宇宙には生命の存続を脅かす様々な脅威があって、その存在そのものも奇跡だけれど、それを存続させるのはとても難しいことなんだと思う。 きっと今、宇宙というか地球は病気なんだね・・・ 幸福というのは物質ではなく。 では何? 幸福感とは?感性で感じる、他の生命との共感や共鳴だと思う。 それを代替しようとして、人は宗教を編み出した・・・けれどそれが利害

本の紹介 奇跡の脳

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本の紹介です。 ずいぶん前に読んだのですか・・・ これは、わたしにはまさにどんぴしゃりの本でした。 やはり病を得た友人が、友人から紹介されたことがある、ということで。 ネットで探したらすでにハードカバーは絶版?で、改めて日本における本の寿命の短さを嘆きたい感じ。 幸い文庫が五刷までされていて手に入ったので、何冊か購入し、その友人にも送りました。 著者はアメリカの脳科学者、彼女が脳の先天的な奇形によって30代で脳出血を起こし、その後、8年を経て「復活」した経験を綴ったものです。2008年に、タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれているらしいのですが、わたしはその頃、脳出血には縁がなかったので…全然知りませんでした。 血圧もどちらかと言えば低いし、コレステロールも低めだったし。メタボじゃないし。 彼女によれば、人の脳は右脳と左脳というパートに分かれていて、情報の分析や行動の指令といった、現代人の行動のほとんどは左脳がしているらしい。 右脳はもっと感覚的な、生物としての本来の部分というか。つまり、現代人としての言語による組立や行動は左脳が担っているので、そこが壊れると自分と世界の区別が難しくなって、自己が失われる、というような分析と、脳の再生能力によって、それを取り戻すことが出来るということ。でも、自己を確立しすぎた現代人の脳は、いわゆる利己的で、右脳は調和や一体感、安らぎなどを持つ生物としてのものである、というような解釈でした。脳科学者としての立場やそれまでの知識による、おそらく科学的な分析でしょう。 わたしも同じような体験をしたので、とても共感できました。ちょっと違うのは、もちろん科学的な知識は持ち合わせていない、一般人の立場なので、うまくは説明できないのですが、私の場合は「脳の新しい部分」が壊れて、「古い部分」が活性化されたみたいな感じ。でした。つまり、いろいろ記憶した情報を分析したり、行動したりは出来ないけれど、映像的なものは考えられるし、2カ月くらいで文字は書けないのに絵が描けたという事実。そして、臨死体験は宇宙との一体感。入院中に「宇宙の真理」を体感出来た気がしたことは、彼女の言う右脳の機能そのものである気がします。 そしてもうひとつ、言語はもちろん、二足歩行やそのほか日常的に出来ている生活のほとんどが、じつ

最近の庭先

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師走になりました。 長野の生産者さんが送ってくれた苗で作った寄せ植え・・・ご近所さんに手伝ってもらって…パンジー・ストック、レースラベンダーなど。 生協で購入の球根たちが早くも発芽してきましたよ。 球根はまさに花芽を内蔵したインスタント植物、適当な時期に土に埋めるだけで開花します。 もちろん翌年の開花のためには咲いた後の管理が大切。 きちんと日に当てて、肥料もやること。 そして、適当な土壌の分量も必要です。 小さいポットや寄せ植えに入っていた球根は大き目の鉢や地面にすぽっと放して(植え替える)やると種類にもよるけど来年も咲きますよ。 去年の暮、年末の外泊で2泊3日の帰宅をしたときに、去年の夏、倒れる直前に掘り上げておいたチューリップの球根を発見。ご近所さんに「庭の空いたところにとりあえず埋めて」もらったら・・・定説では年内に植えれば咲く・・・なんだけど。年明けに植えた割にけっこう開花してくれて、春たけなわの頃、切り花になって楽しませてくれました。

時事ネタです

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番組はもう終わっちゃったんですが、 NHK名古屋の特別番組 とイベントがありました。 先日、ESDユネスコ世界会議「持続可能な社会のための国際会議」というのが名古屋であったのを、ご存じの方はどのくらいいらっしゃるでしょう? ま、ふつうの人はほとんど気づかないだろうな~ いわゆる成功ネタじゃないし、地味だし。 でも、ほとんどの人はこのまま現在の生活を続けたらヤバいな、って感じていると思う。 近ごろいろんな天災や気候変動が顕著になってきちゃったから。 そもそもわたしが「臨死体験」(くも膜下出血)をしちゃったのも、もちろん欲張って何足もわらじを履いてたせいもあるけど、いちばん大きなショックは、あの東北の震災、というよりそれに伴って起きた「原発事故」だったと、日にちが過ぎるごとに確信しています。人類はどこかで道を誤ってしまった・・・と。 でも、その反省を忘れている?と感じる昨今・・・ じつはNHK名古屋で番組の司会をされたアナウンサーは永井伸一さんと言って、2010年にCOP10、生物多様性の国際会議が日本であった時にやはり渋谷のNHKでイベントがあって、特別番組で作品を紹介してくれたのが彼でした。 (今年6月のブログにも永井さん担当の、福島で保護された雑種犬が災害救助犬にチャレンジする番組を紹介しました) そんなこんなで、番組で意見募集をしていると知り、わたしも短文のメッセージを送ったのですが・・・ 展示会より 展示会より なんと番組の最後に、永井さんがわたしのメッセージを読んでくださいました。 それは、進化歴史の新参者というペンネームで、 「地球の未来のために利害でなく共感を、人類にも未来があると信じたい。」というものでした。 まだたくさんの後遺症があって、思うように作品作りも外出も出来ない今ですが、メッセージを送る、とかならは出かけなくても、力がなくても、ゆっくりでも、社会参加出来るかな、と思って。読んでいただいてとてもうれしかったです。 生物多様性の劣化も、気候変動も、地球上の対流や循環を人類が阻害しているからこそ起きるもの。それは、今このときだけの問題ではなく、未来永劫人類が生物をやめない限り、ずっと続くしだんだん加速する、とたぶんみんな気づいている。もし、人類に本当に知恵があるならば、対流や循環を

クリスマスセール開始!限定品の販売!

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今年もクリスマスセールが始まりました。 12月25日まで全商品10%OFF! 各商品をカートへ入れて頂くとセール価格になります。 今回は「しまふくろう」を5体を限定販売致します。 ※しまふくろうはセール対象外です。 しまふくろうのご購入はこちら! 割引表示について 下記のように割引額が表示されます。

園芸師匠の教え

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師匠の教えをひとつ。 すぐれた園芸植物とは、少しだけ手間がかかる気候に適応して丈夫な植物である、と。 たとえば「日本桜草」のように、毎年「芽分け」をして植え替えるだけで、江戸時代からずっと続く品種を維持できる。もちろん気候に合っていることも大切。 やたら丈夫で放任で増殖してしまうようなものは、園芸の世界から逃げ出して在来の生態系を脅かす「脅威」になってしまうし、手間がかかりすぎるものは普及しない。 というもの。これは現在でもわたしの園芸指南です。 本当にその通り! わかっていたつもりだったのですが、欲には勝てず・・・手を広げて集めた植物の中には半年の不在で枯死したものもあり、これまで種子を播いたり購入したりして、手掛けた植物の中で失ったものは数知れず・・・もちろん、栽培してみないとわからない・・・というのもありますが。 先生の教えの中には枯らすことを恐れずに栽培してみる、というのもあった気がします。栽培してみなければわからないことはたくさんあります。 植物さんたち、ごめんなさい・・・合掌。 生き残ったものを大切にしようと思います。 画像NO14とNO11は、たぶん平尾氏の交配したネリネ・サルニエンシスの交配種、もう10年くらい前に、生産農家の横山園芸さんから入手したもの。 平尾氏ゆかりの会で園の見学をさせていただいたときに。横山さんはクリスマスローズも育種・生産されていて、原種シクラメンもいろいろ生産されている。 わたしも最近、原種シクラメンと少し仲良く出来るようになってきた。 やっぱり砂漠出身なので、水管理が大切。 画像1 画像2 画像3 画像1は、画像2と画像3をかけた実生で我が家で生まれたもの。 見た目は画像2にそっくりだが、花弁の波が少ない。でも、初めて咲いた初花なので、今後多少は変化する可能性もある。たぶん、5年くらいは経っていると思うが、6センチのポットに植えてぎゅうぎゅうになっている。彼らにとっては良い環境だったのだろう、かなり早い開花だと思われる。ほかの兄弟はまだ咲かないから。 そのうち、もう少し動けるようになったら、兄弟たちも小さいポットに植え替えてやろうと思う。

師匠との縁

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最近、とても不思議なんですが、この平尾先生とのご縁がつながっているという実感を得ました。 クラフト作家であり、園芸の友でもあるKさんは、わたしより少し先輩ですが後遺症で不自由なわたしの園芸ライフをいろいろ助けてくださいます。 彼女の「恵泉女学院短大・園芸科」時代のお友達も一緒に手伝ってくださるのですが、先日、そのうちのおひとり(友人のさらに先輩)が、わたしがかつて平尾氏に連れて行ってもらった埼玉の園芸農家で出会った人ととても仲良しだったとわかりました。その人は高校生の娘さんがいたシングルマザーでした。 作業をしながら(わたしはほとんど作業出来ないのでもっぱらおしゃべり)、平尾氏に紹介された埼玉の女性は卒業後も平尾氏と関わりを持ち、園芸を生業とするべく結婚式も温室でされたとのこと。ご友人も出席された、ということでしたが・・・とても仲良しだったらしいのですが、現在は音信不通らしく。 年齢的にもわたしよりはかなり年上だし、接点は短大の園芸科というだけ。しかもわたしはそこを経ていないので、恵泉女学院短大と関わりのあった平尾氏の、「自称弟子」としての関わりだけなわけですが。 その当時平尾先生は教え子のそのシングルマザーのことをとても気にかけていて、娘さんとわたしはいくらか年齢が近かったので、それからしばらく文通をしていました。娘さんの名前をわたしが憶えていたことで、つながりが判明したのでした。 なんだか平尾先生のお導きで、園芸ライフの継続が可能になったような、そんな気がしました。 これはお世話になっているクラフト作家のKさんからいただいた、秋咲きのスノードロップ、今年はたくさん咲きました。でも、今年の初め、退院した時にも咲いていた記憶があります。退院したのは1月30日だから、昨年の秋咲いてたらそんなに保ちませんよね?暮れに一時帰宅した時だったかな?それにしても?

ネリネ、園芸の師匠・平尾秀一氏ゆかりの植物

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このネリネというのはヒガンバナ科の球根植物で、わたしが大好きな小球根の一種。日本のヒガンバナに似ていますが、南アフリカ出身のため、耐寒性は低く、軒下でようやく越冬する程度。彩は南アフリカ出身だけあって、ピンク系や派手な色彩のものが多く、いくつかの原種とサルニエンシス系の交配種が園芸植物として栽培されています。 たぶん平尾氏の交配したネリネ・サルニエンシスの交配種、 もう10年くらい前に、生産農家の横山園芸さんから入手したもの。 平尾氏ゆかりの会で園の見学をさせていただいたときに。横山さんはクリスマス ローズも育種・生産されていて、原種シクラメンもいろいろ生産されている。わたしも最近、原種シクラメンと少し仲良く出来るようになってきた。やっぱり砂漠出身なので、水管理が大切。 上の画像は、わたしが高校生の頃からの園芸の師匠・故平尾秀一氏氏ゆかりのネリネ改良種/数年前にやはり平尾氏の弟子(?)だった、横山園芸さんから手に入れたもの・・・濃いピンクのものは後半変色して紫を帯びるのですが、これは退色したのではなくて、花の色には珍しいくすんだ紫という本来の色。変色してからもこの色を保ち、切り花にしてもとても長持ちする。 そればかりか水分を失っても色が変わらないため、「何かに使えないか?」と、生前の平尾氏ご本人から、摘んだ花柄を色別に送ってくださったことがありましたっけ。 白っぽい方は花弁に少しフリルがあって、光が当たると花弁がキラキラ光る。 花弁の細胞の粒粒がキラキラする個体は、同じヒガンバナ科のラッパ水仙の個体にもときどき出現します。 この平尾秀一氏はとても面倒見がよく、本業は水産庁のお役人で、本業の傍らあの検疫が厳しい時代に多くの球根植物や園芸植物を日本に導入されて、それを多くの生産者やわたしたちのような若手の園芸マニアに、惜しげもなく配布してくださいました。 今では、日本も園芸大国となり、プラントハンターも存在しますが、ほんの半世紀前には検疫も厳しくて、球根などは1シーズンの試験栽培を経ないと入手できないというものでした。 もちろん、植物も昆虫も、他の動物も、本来の生態系を破壊しないように生体の輸出入(実際には輸送や採集・捕獲ののストレスで検疫以前に死んでしまう個体が多いことも問題)はある程度制限が必要であって、現在のように検疫が間に合わない

地球の上で

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ちょっと時事ネタ 先日、フィギュアスケートの世界選手権、中国で開催のをライブで見ました。 中国とは時差が少ないので、ライブでも夜中ではなくて見られるから。 羽生くんの試合、去年は病院で、となりのベッドにいたNさんに見せてもらったっけ。なんだか楽しかったなぁ・・・ わたしのベッドにもテレビはあったのだけれど、まだ焦点は合いにくいし、病院にいる間はテレビ見なくても、ニュース見たから何か、といって特にすることも無いし、時々持ってきてもらう新聞で事足りるので。テレビは入院中くらいやめておこうと思って。 で、フィギュアスケートのときだけ、お隣さんのテレビを見せてもらったのでした。 入院中というのは、もちろんお見舞いに来てくれる友人や家族もとてもありがたいし、外の情報や差し入れのお菓子もうれしかったけど・・・ 同じように入院している患者同士というのは、どこかで出会った友人よりも、有無を言わせず同じ空間で、文字通り24時間を共有する上、みんなどこかに病や不具合をかかえているので、とても親近感があったりする。たとえは悪いけれど、戦友みたいなものかもしれません。 で、Nさんは交通事故だったので、わたしより早く退院したのですが、猫好きだったり、馬を飼った経験があったり、と話が合ったので、彼女の入院中にはいろんな話をしたりしてとても楽しかった。お互いの見舞いの食べ物を分け合ったり、昔話で大笑いしたりして。 スケート見ながらそれを思い出して、Nさんどうしてるかなぁ…と。 そしたら数日後、彼女から手紙が来て、Nさんも同じ思いだったと知りました。 で、電話でまたおしゃべりしちゃった・・・ 彼女も今は一人暮らしらしく。 羽生選手、中国の選手と衝突しちゃって、流血のまますべりきった・・・賛否両論様々だけれど・・・ もちろん、あんな危険な練習は、いつもよくぶつからないなぁ、と思ってたから、ルール改訂とか、万全の方法をとるべきだけれど、あれを見ていて思いました。 はじめはあ~あ、こわくて見ていられないや、お願いだから滑るの止めて、って感じてたんだけど、見てるうちに、彼の意志はほかの人には止められない、と感じるようになりました。ライブだから、短い時間のうちに。たぶん、棄権して、選手生命が伸びたとしても、本人はちっとも嬉しくないだろうし、無理して滑って何かあ

ヒメカマキリとシクラメン

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家の南側に、小さな裏庭があります。 本来、南側が表のはずなんですが、ここは地形的に北向きなので、南側は面積も小さく、庭の続きが裏山(じつは南側)ということで、形的には裏庭という感じ・・・ 原種シクラメン・ヘデリフォリウム シクラメンはじつは学名で、種子を結んだ花茎がくるくるとバネのように(サイ クル)丸まって地べたにうずくまり、種子が熟すと根元にばらまくという形態を 表すものです。種子は嫌光性と言って光を嫌い、地中で発芽します。これは砂漠のような暑くて 乾く気候の中で、種子が発芽する前に乾燥して死んでしまわないように、地中にばらまく ための方法なんですね。 進化の長い歴史の中で、砂漠の生活に適応したすばらしい方法です。 で、ここは庭に面して大きなアルミサッシの窓なので、犬走りと小さな縁側にしてもらって、窓からすぐ手のとどくところにいくつかの植物を置いています。 手前はなんとか水をやれるし、端の方は雨水が多少はかかるので、ひんぱんな水やりは必要なしです。外を歩き回るのには、平衡感覚が戻って来ないのでまだちょっと不安がありますが、この裏庭ならばいつでも楽しめます。 日によって焦点が合いにくかったりぼやけたりで、「楽しめる」時間には制限がありますが、たぶん少しずつ慣れればだんだんよりよく「楽しめる」ようになるのではないかと思えるようになりました。 来春のシーズンには、今年はほとんどピンボケだった実生の球根たちや、自作の花たちの姿がいくらかでもクリアに見えると思うとわくわくします。 で、先日からこの裏庭の犬走りに、小さなお客さんがいるのに気がつきました。 画像が撮れたのでご紹介します。 ヒメカマキリ 中央で鎌を構える姿がわかりますか? とても小さいです。全長2センチくらい。 最初に見つけたとき、カマキリの子どもだと思いました。でも、季節はやはり晩秋で、とても素早い動きには幼さがありません。 で、調べたらヒメカマキリで、雑木林などに当たり前に生息するものと判明しました。いや~この年までここに住んでいて、今まで知らなかったとは! あと、とても嬉しかったことを二つ。 昨夜、10時ごろに窓際を通りかかって、聞き覚えのある鳴き声に思わず窓を開けました。すごく近い! なんと、たぶん庭で、フクロウが鳴いています。「ホ

花絵本

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久しぶりに花絵本の原稿です。 ブログに書いてきたので、みなさんご存じかとは思いますが、花絵本で最近ブログにいらした方には・・・かも。 じつは去年の夏に解離性くも膜下出血で死にかけたので、しばらく花絵本はお休みしてました。それで、今年の交配も採種もお休み。それどころか、後遺症があって、本業もお休み・・・ でも、今まで採種した種がまだかなり冷蔵庫にあるし、去年の種はそのまま。で、まだ退院したばかりの、ちんぷんかんぷんの中、助っ人に助けられて何とか今年播いてもらう種を選び出し、発送したのでした。 それで、長野の生産者さんが、いそがしい中、大切に育てた「娘」たちを送ってくれました。 画像が撮れたので。 もう少しガタがきているロートルのカメラ、10年くらい前に秋葉原で買ったやつ。ピントが少し甘くなってきて「使えない!」と、小さくて高画質のニコンを通販で安く新調したのですが・・・ メールで送るのに画素数が多いものは一度にたくさん送れないし、なんだかうまく撮れないな~と思ってたら、ふとマクロの撮り方があることを思い出し、チューリップマークにセットしてみたら・・・あら、まだ使えるじゃん! もちろん、後遺症のためにカメラ保持が甘く、手振れもあるから全部というわけにはいきませんが・・・ 今年は送ってくれた長野の生産者さんの販売先が下記 愛知県 サンリョー園芸センター緑店 静岡県 立花ガーデン 神奈川県 ヨネヤマプランテイション本店 宮城県 ガーデン・ガーデン本店 大阪府 よつ葉や 大阪府 大阪府のロベリア 兵庫県 陽春園 福岡県 ゆくはし植物園 福岡県 オニヅカバイオシステム 長崎県 ガーデンカルチャー幸田 宮崎県 アナーセン の他に、種まきしてくれた生産者さん(直販しています)は愛知県の とよた花菜工房さん  と、毎年おなじみの 下田農園さん(0465-35-2008) 大手さんのサカタのタネ・ガーデンセンターさんが下田農園さんの苗を、タキイさんでも別ルートで「カナリア」など、いくつかの品種を販売されているようです。 下田農園さんの苗は静岡の「花物語」さんも扱ってくださっています。 花絵本は、わたしが交配して作った品種の混合なので、画像と同じものがあるとは限り

休業日のお知らせ

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いつもご利用いただきありがとうございます。 10月21日〜30日まで網走店は休業させていただきます。 ご迷惑をおかけいたしますが、ご了承のほどお願いいたします。 やまね工房 網走店

つばきレストラン

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大田黒さんの何冊か目の絵本、「つばきレストラン」福音館書店の、ちいさなかがくのとも・・・です。 大田黒摩利さんは、紙の「さとやま通信」を出していたときに、手弁当でイラストを描いてくれていたわたしの友人です。今は、フィールドを大切にする、絵本作家でありネイチャーアーティスト。 森の植物図鑑と野原の植物図鑑の著者、長谷川哲夫さんとご一緒に展覧会をされたこともあって、そこで長谷川さんにもお目にかかることが出来ました。 彼女は磁器の絵付けもされていて、「いきものつながり展」で、一緒に展示をするメンバーでもあります。 去年の誕生日、まだ寝たきりで、病院のベッドの上にいたとき。 送ってくれた大き目のカードは、ホームセンターで買ってきてきてもらった軽い額に入れてベッドサイドに掛けていました。 大好きな野生動物のいろいろ、まわりの人たちにも自慢だったなぁ。 今は事務仕事に使っている、この部屋に置いています。 彼女だけでなく、友人やまわりの人たちから受けた祈りやメッセージのおかげで、しみじみ生きててよかったと感じたものです。 大田黒さんの ホームページ です。

本の紹介 野の花さんぽ図鑑

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森の・・・と姉妹本。 2冊あると、身近な植物と昆虫はほぼOKです。 長谷川さん、植物も昆虫も、ほんとに好きなんだろうなぁと思う本です。 わたしも表現するからわかるけど、植物や昆虫、描くという前に、見ていてその精巧さとか美しさに感動しちゃいます。 それをほかの人にも伝えたくて、とても難しかったり手間がかかったりするんだけど、描いたり作ったりしちゃうんだよね・・・ わたしのは力仕事だったり、「欲張って」いろいろやりすぎたから・・・途中(と思いたい)で振出に戻っちゃったけど。 長谷川さんには熊田千佳慕(90代まで制作を続けた、日本のファーブルと言われる画家)さんのように、長く描きつづけてほしいと思います。

本の紹介 森のさんぽ図鑑

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本の紹介です。 これは、この前の「犬と人の生物学」を築地書館に頼むとき、同時に注文した2冊のうち一冊です。 長谷川哲夫さんという画家の、植物図鑑。 長谷川さんは植物と昆虫を描かせたら、日本で一番、とわたしが思っている画家さんです。 友人の画家で通信を出していたとき描いてもらってた大田黒摩利さんと一緒に展覧会をしたことがあって、お目にかかったこともあるし、お住まいがやまねたちを作ってくれている遠藤さんちのご近所で、何かご縁も感じましたが、とにかく描く植物や昆虫が美しい。 摩利ちゃんの絵は、やはり大好きな世界的な画家「マイヨリン・バスティン」の絵みたいで、デザイン的な工夫や彼女らしさがあって楽しいのですが、それとも違って、とてもリアルなのです。 紙の上で、植物も昆虫も生きています。 写真の図鑑も最近は豊富で、そちらの方がよりリアルと思うでしょ? でも、じつは写真の図鑑って意外とわかりにくいの。なぜかというと光線の具合で色が違って見えたり、季節によっての違いが表現できなかったり、サイズが分かりにくかったり・・・ その点、絵だとその変化も載せてあったり、画家の目を通してどこが特徴かクローズアップして描かれているからわかりやすい。で、同級生の友人が趣味のカメラで撮った写真をホームページにアップするとき、名前を調べるお手伝いをたまにするんだけど、「ウィキペディア」でお手上げの植物をこれで調べたら一発だった!「ハグロソウ」「ウィキペディア」も、ある程度植物の知識があって、属や科までたどり着ければ名前まで行けるけど、普通の人にはなかなか難しいと思います。 が、こんな図鑑なら大丈夫。 ちなみに友人の ホームページ もちろん名前を知っててなんぼのもん、ってとこもあるんだけど、やっぱり知らないより知ってたほうが紹介するときはいいだろうし、昔の牧野富太郎先生の命名なんかは名前が美しくて感動があったりします。ま、「ママコノシリヌグイ」 とか、「イヌノフグリ」とか、びっくりしちゃう名前もあるけど。 で、そんな、森のさんぽに持って行ける、すぐれもので美しい、じつはデスクサイドに置いて、出かけられないときも楽しめる、一冊は欲しい本です。

ねこの思い出 その3

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あるとき、店にバスケットに入れられた中猫(子猫より大きくオトナ未満)が置かれていました。白黒のやや毛の長いねこでした。 先住の「ちぃ」ちゃんはいじめることなく、「ちびくろ」と呼ばれていた彼はいつも「ちぃ」の後をついて歩いていました。 初対面のとき、彼は「ついてこいよ」といった感じで鳴きながら、駐車場の横に作っていたハーブ畑を案内してくれました。とてもフレンドリーで、どちらかというと犬のようでした。肩まで登ってきて頬ずりしたり、にゃあにゃあおしゃべりしたり。店主の友人は「どんくさい」と言ってましたが。いつも自転車のかごの中で昼寝していて、駐車場の車が動いても逃げないからです。 変わったねこだなぁ、と思っていて、かわいいのでもらって帰ろうかとも思ったものでした。その後、ちぃちゃんの後をついて歩いている彼が、塀の上を歩けないことに気が付きました。 側対歩…ラクダの歩き方で、右手・右足が同時に出る歩き方です。これじゃ塀の上、歩けないわけです。歩こうとして落っこちます。 そんな彼でしたが、ちぃと一緒にとても楽しそうに毎日を過ごしているように見えたので、もらって帰るのはやめました。 そして、それから冬が来て、お客さんの車に轢かれて「ちびくろ」は短い生涯を閉じました。とてもヘンテコで、天使のような猫でした。 下の画像は「ちびくろ」をモデルにしたぬいぐるみ。実際の写真は残念ながらありませんでした。作っているときも近くに来ておしゃべりしていたような気がします。 クラフト教室で作った「クロモジの枝製かご」を飾った店の入り口 店内 クラフト教室の観葉植物用かご クラフト教室も、猫たちも、ときどき焼いていたシフォンケーキも、どれも今はセピア色です。 このほかにも猫とのつきあいは、自分で飼ったことはないのですが、迷い子猫を3週間くらい預かったり、近所で目ヤニか何かで目が明かないオトナの野良猫の目をティシュでふいてあげたら、その猫よりもっと具合の悪そうな猫を彼が連れて来たり・・・ 母猫が子どもを1匹置いて行ったり・・・ と、感情があるとしか思えないやりとりが幾度かありました。 犬とは、石器時代からの遺伝子レベルのお約束がある気がしますが、猫とは、人と同じような個体間の関係があると感じています。 猫でもいいから飼い

ねこの思い出 その2 ハートランド

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今から20年くらい前、友人の丸太小屋レストランとフィールドメッセージという雑貨とアウトドアの店を手伝っていました。 レストランの外観です。今はもう閉めちゃったのでありませんが。 雑貨とアウトドアの店は2年くらいで閉めちゃったのですが、レストランの方のテラスの下で、クラフト教室をやったり、フィールドメッセージで「ねこ展」もやりました。 店で飼っていた赤トラのねこが「ちぃちゃん」という名前で、看板猫してました。とても運動能力が高く、賢いねこでした。 看板猫「ちぃちゃん」 「ちぃちゃん」に似せて作ったぬいぐるみ 冬は、駐車場に止めた、お客さんの車の上が温かいのを知っていて、よく車の上で寝ていましたが、あるとき、お客さんの車(RV車で上にキャリーが付いていて、その上に載っていた)に乗ったまま1時間近くたってから、お客さんが鳴いているのに気付いて戻ってくれる、という事件がありました。2時間くらいドライブしてきちゃったのでした。 あるときはメジロ、ヒヨドリやモグラ、ハツカネズミ、と狩りの名手で、ツバメの巣立ち雛や、スズメの雛を2羽一度に捕まえて来たこともあります。 猫は柑橘が苦手といいますが、メジロやヒヨドリは捕まえてもなぜか食べませんでした。 そして、獲物を捕まえると、母猫が子どもを呼ぶときの声で鳴きながら、見せに来るのです。小さなハツカネズミの子どもを咥えて来たときは、生きていたので助けようと、竹かごをかぶせたのですが、その後逃げ出したそれを執念深く待ち続け、とうとう捕まえてまるごと食べてしまいました。 ときどき、おみやげで猫缶を持って行ったのですが、「おみやげ」の言葉を覚えてわたしのかばんをチェックしてましたっけ。

ねこの思い出 その1

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すごーく前のアルバムに旧友を発見しました。スキャナーで取り込んでみました・・・ 今から三十云年前。 専門学校生だったわたしは、品川区の母方のおばの家がアパートだったので、その1室に住んでいました。フォーク(音楽)全盛の頃、4畳半一間に小さな流しとガス台が付いていました。今では考えられませんが、昭和50年代の東京では、そんな六畳一間に家族が住んでいた時代です。お風呂は銭湯。でもわたしはおばさんちのお風呂に入れてもらっていたので、銭湯はたまにいとこと一緒に行くのが楽しみでした。 銭湯に行く途中に縁日が立つので、その日にちをねらってよく行きました。 日暮れの白色灯のなか、様々な出店をひやかして歩くのが楽しかったな~今ではセピア色の思い出です。 あるとき、玄関のドアの外に、魚をくわえた猫が一匹いました。 すぐ近所に公共市場があって(たぶん終戦後に作られてずっとそこにあった、魚屋さんや八百屋さん、歯医者さんやパーマ屋さん、などが出店していました。並びに焼き鳥屋さんもあったな)、たぶんそこから失敬してきたか・・・猫はわたしを見て、逃げようとしました。 逃げようとした猫に声を掛けたら、振り向いた猫と目が合いました。 そして、彼女とのその後数年に及ぶ友情が、その瞬間に芽生えたのでした。わたしはそのねこを「あいちゃん」と呼んでいました。目→eye・・・がとても大きく、いとこが名づけたのでした。三毛猫で尾が長く、ほっそりしていて綺麗な猫でした。そして、気品があって美しかった。 愛想が良くて、たぶん生活の知恵でしょうね。後からわかったのですが、今で言う地域猫のように、ご近所のあちこちでいくつもの名前で呼ばれていたようでした。きっと、最初は飼い猫だったのでしょう。引っ越しで置いていかれたか、捨てられたか。もう成猫であまり若くない印象でした。 付き合いがあるうちに3回子どもを産んで、最初のときは子どもをわたしに預けて餌を探しに行きました。連れてきて、置いて行っちゃうのです。子どもたちはそんなに人なつっこくはないのですが、しょっちゅう預けられているうちに触らせるくらいには慣れました。何回目かのうちに、抱っこして部屋の中に入れたらパニックになって、ああ、やっぱり野良だなって思ったものでしたが、触るくらいは許してくれました。母の友人のおばちゃん、と