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辺野古に思う

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寒波の被害はありませんでしたが、寒かった、です。 久しぶりの雨はうれしいけれど、日差しがないのでやはり寒い! ですが、九州や沖縄、はたまたアメリカも寒波に襲われ、洪水があったところも。 わたしが住んでいる地域でも、このところ群発直下型地震があったりと人間にとってはうれしくない地球の状態ですね。 人の一生よりもずっと長いスパンで生きている植物にとっては、この程度は変動と言えないのかもしれません。 最近、BSの再放送で、屋久島、小笠原、沖縄の自然を扱ったものを見ました。 地球が生きものであると、改めて実感しました。 沖縄の、辺野古も自然遺産になればいいのに。 辺野古だけでなく、南西諸島すべてにその価値はある、とわたしは感じました。 アイヌの言い伝えからすると、「地球は人間がいなくなっても困らない」訳で。 世界自然遺産・・・地球の宝・・・これがなくなって困るのは誰でしょう? 地球は困る? 困るのは人類を含む生物たち。 なくなる原因は? 今のところ、残念ながらその大きな要因は人類の所作である、と思われます。 酸素を生み、地球の健康に欠かせない循環や対流を生む熱帯雨林やサンゴの海を壊し、科学物質や放射能を大量にまき散らし、あげくの果てに自分たちが築いた文化をも破壊して、自ら殺し合う諍いをする。 しかし、自然遺産、の概念を作るのもまた人類。 どんなに長生きしても、100年、そのうち自分の意志で行動できるのはせいぜい50年です。 50年に一度の災害はめったに起こらない、ということではなくて、一生に一度は体験する、というもの。 放射性物質の管理は何万年ものサイクルが必要だと言います。 いったい、どうやって、誰が管理するのでしょう? アフリカの言い伝えに、今あるすべてのものは子孫からの借り物、というのがあるらしいのですが、そのような概念がすでに消失したかのような現代。 今、一番大切なものって、いったい何なんでしょうね。

パンジー展へ!

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ちょっと時間が経ってしまい、もう終了してしまいましたが、友人たちと小田原フラワーガーデンのパンジー展に行ってきました。 宮崎の元祖、川越路可さんとお花屋さんのアナーセンさんのはこれからです。 2月1日から7日まで  詳しく見る 川越さんのブログ でも紹介してくれています。 他に岐阜の可児、鳥取の花回廊でも企画されています。 花フェスタ記念公園  1月30日から2月28日まで とっとり花回廊    2月6日から21日まで

森の長城プロジェクト・・・

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少し前になりますが、新聞広告で下記を見つけ、少しだけ送金しました。 森の長城プロジェクト 例の、元首相のお二人が始められた、巨大構造物でない堤防の構想です。 まあ、首相時代のことはさておき、この考え方には共感するし、しょうがい者になっちまったわたしに「出来ること」はわずかなので。 新聞も、読むとけっこう心に止まる記事があります。 たとえば、ヒグマが加害者とされた事件・・・北海道で集落が襲われて何人もの人が食われたというもの・・・詳細は記憶していませんが、100年くらい前に入植した人々とヒグマの事件。 野山の彼らの縄張りに人が侵入して、遭遇した、いわば事故ではなくて、食糧として人を襲った事件としての。 それを追跡した記事だったのですが、その最後のところに、アイヌの言い伝えに「人は地球が無くなったら困るけれど、地球は人が居なくても困らない」というのがありました。ま、現代語としての解釈で原語では少し違うかもですけれど。 アイヌや、アメリカ・カナダ・南米のネイティブ民族、狩猟採集を生活手段とした文字文化を持たない人々は、「野生」の人類として、地球の存続のための重要な役割を認識しつつ継承していたのだと思います。 現代の人々は何か大きな勘違いをしている、とわたしは思います。 東北の震災・津波・そして何より原発事故。 それを経て、それ以前と同じ考え方、同じ生活様式が出来ること自体、わたしには疑問です。 だから、元首相が考え方を変えたのは歓迎すべきかな、と。

年の初めに・・・

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2015年が終わりました。 ま、人類のカレンダーでは、ね。 この一年を振り返ってみると・・・ まあ、毎年振り返るといろんなことがあるけど、個人的には今までで一番、変化が無かったような気もする。 淡々と日々を送る、ということで精いっぱいな毎日。 それってじつは当たり前なのかもしれないけど、2年半前までは予定に振り回されて、一切の余裕がなかった。 常に目の前にやるべきことがあって、そのために生きてた。 突然普通に息をすることも、自分を維持することも出来なくなってみて、その予定というものは自分でこしらえた幻だったのかもしれないと、今は思います。 生物学者の福岡伸一さんが、新聞のコラムに書いていたけれど、「失ってこそ得られるもの」という題で。 動物と言われる、動く能力がある生物は、必須アミノ酸を自己合成する能力を失ったらしい。これは、必須と付いているからには無しでは生きものとして存続出来ないものらしい。で、福岡先生の考えでは、無しでは生きられないから、そのアミノ酸を摂取するために動いて、それで動物になったんだと。 つまり、欠損や障害はマイナスじゃないんだって。新しい可能性の扉を開く原動力になる、と結ばれていました。 ふーん、そうなのか? と思ったけど。 ま、突然訪れた「動けない」という障害には、正直参ったけど。 でも、予定や計画を失うことは、わたしにとってある意味プラスだった気がする。 たぶん生まれてからそのときまで、抱えていた矛盾の答えを、与えてもらった気がします。理屈ではなく、体や脳に直接。 それまで何となく感じていたものが、間違っていなかった確証として。 そして、体感したからこその説得力を得たのでした。 「こころ」や「たましい」の存在、目に見えないもの 人類は哺乳類の一種で、地球上の生物の一種に過ぎないこと。 地球という生命体の上で、自分の体の中のひとつひとつの細胞と同じように、ひとつが他のために、みんなで奏でるシンフォニーのように、みんなで織り上げるタペストリーのように。どれひとつをとっても不要なものなどない。それぞれが大切なひとつの役割を持っている。それでなければ循環する、つまり生きている ことにならない。 地球上のすべての物質は共通の感覚を持つ同胞であること。 そして、残念なことに人類