投稿

8月, 2014の投稿を表示しています

本の紹介、おかげさまで生きる

イメージ
この本は東大の救急医療の先生がお書きになったものです。 この方は最近多くの似たような著作を著わされているので、ご存じの方も多いと思います。わたしは患者の立場でしたが、同じような体験をしたので共感できるところがたくさんありました。自分が出来る体験はごく個人的なことなので、普遍性や、他の人がどう感じるかはわかりませんでした。が、同じような体験をされて、同じように考える方も確かに居て、病院で見聞きしたことのいろいろは今まで漠然と考えてはいたが、自分のものとしてわかっていなかったと感じたのでした。 現実的にはいろいろつらいことが多く、もしかしたら現実逃避かもしれないけれど、わたしはそれを客観視することによって、前向きになれた気がします。 極限状態で物事を客観視するということで、何かの幸福感を得るという体験。これはみんなにおすすめ出来ることではないのですが、わたしにとってはとても幸運だったと思います。そして、感謝の気持ちやあいさつ、お礼の言葉などが、病気のときばかりでなく、老いに対しても必要だと強く感じました。一人で生きていたつもりでしたが、人類という生きものは一人では生きられないということがよくわかりました。当たり前と思うようなことですが、最近の人類は生物であることさえ忘れかけているように見えます。それは同時に自身の存在価値をも見失うことになっている気がします。他者を、食べて自身の身に付ける為でなく殺せるのは、自身の存在を否定することだと思います。 生死と真摯に向き合うことでしか得られない、生命世界・宇宙の真理みたいなものがあるのかもしれません。命がけで修行した修験者とか、命を失いかけた人とか、命のやり取りをする現場に立ち会う人とか。おかげさまで、わたしにも少しそれがわかったような気がします。同時に、運よくこちらの世界に戻って来られなくても、気持ちよく「たましい」が、この世界とさよなら出来るように、「看取る」ことの大切さ。身内、他人関係なく、意識がこの世界にあるときに、寄り添って共感してくれる存在が、「救急医療」にこそ必要だと、わたしは思います。 癌など、進行性の病では、ホスピスや「看取り」の大切さはかなり浸透してきたように見受けられます。不治の病は悲しいし、不条理ですが、それを受け入れるのにいくらか時間があります。逝くものと残るものとが共有できる

再放送のお知らせ

イメージ
最近のミラクルで、こんな番組を見ることが出来ました。 ピダハンという南米の先住民が、色や数字、過去や未来の概念なしに生活していた、という内容です。 そこに布教のために派遣されたカナダ系の宣教師が、今は言語学者らしいのですが、新しい学説を立てて、それが既存の言語学者たちの反感をかって、再訪出来ずに終わり、その民族は現地の政府に定住化されつつある、というような内容でした。 彼はそこで原住民の生活や言葉を学び数年を共に暮らして、結局彼らは幸福で宗教を必要としていないと知ったのです。そして、彼の家庭は壊れ、宗教からも離れて言語学者になったらしい。 美大の講師を助っ人してくれた友人にもこの情報を送ったところ、再放送があると調べたらしく、送ってくれました。8月25日の深夜だそうです。 詳しくはこちら! 人が野生生物として生きているころ、過去や未来、物質にとらわれることなく、幸福感もきちんと持っていたのでしょう。 ドイツ人、故ミヒャエル・エンデの「モモと時間泥棒」に出てくるように、効率や経済に振り回されるようになって、犬や猫や、他の動物たちが持つ幸福を失くしてしまったように、わたしは思います。 「人は道具を使えるすぐれた生きもの」などではなくて、時間とものに振り回されて、幸福感を失くした不幸な生きものなんだと感じました。 しかし、ネットの普及によって、現地を訪れることなくいろいろな情報を得られたり、また、言葉や習慣の違いによる多様性をお互いに認め合うことも可能かもしれません。 人類はその生物学的な危機を、今迎えているけれど、同時にその生物学的な感性によって、もしかしたら生きものとしての命を取り戻せるかもしれない・・・という希望が見えます。「オトナ」の務めはあきらめないこと。 8月だというのに各地で豪雨の被害かあるこの頃。 干ばつや洪水、地震や竜巻。 自然とは、天災を含む宇宙の営みであって、すべての命は等しく役割を持ち、宇宙の法則に従って生きるものである。 すべての命は謙虚に、それを観察して、自らの命をまもらなければならない。 そして、すべての命は共鳴・共振することが出来て、それこそが「幸福感」なのではないか? エンデさん、もう少し生きててくれればよかったな。 追記 こちら も面白いです。(有料なんですけど)

メールご紹介

イメージ
お客さまからいただいたメールをご紹介します。たくさんの写真も送っていただきました。 お客さまのメール 私は小学生の時からやまね工房のももんがが大好きでした。 いま我が家には私のと、姉のももんがが合わせて12匹います。 家にいる間は、ほとんどももんがと一緒に過ごしています。 ももんががいることで、なにか勇気を出したいときなど、力になっています。 小学生の頃の卒業文集には将来の夢にやまね工房でぬいぐるみを作ること!などと書いていました。 まだ網走には行ったことがないのですが、いつか…できれば近いうちに行ってみたいなと思っています。 大事にしているももんが達を生み出してくれた落合さん、やまね工房さんに、とても感謝しております。 ホームページや、ブログでご苦労されているのを拝見しております。 ももんがは、私や私の家族、友人を笑顔にしてくれます。そのことをお伝えしたくて、メールしました。また、ももんがと旅行した写真やももんがの元気な写真もお見せしたいなと思いました。 お返事いただけましたら、お写真を送れますので、よろしくお願いします。 私の誕生日をお祝いしているところです。 ももんが集合! フェルトで作った帽子を被せたところ イタリア旅行にて イタリア旅行にて 台湾旅行にて 落合けいこより たくさんのももんが! フェルトの帽子、とても似合いますね。 海外旅行までさせてもらって、幸せなももんがたちです。 近ごろはぬいぐるみだけで旅行に連れて行き、画像を持ち主に送ってくれるツアーもあるとか。ニュース番組で見ました。江戸時代に飼い犬にお札をもらってきてもらうお伊勢参りもあったと聞きますが、そんな感じでしょうか。 ITの普及で、以前なら考えられない楽しみ方もあるんですね。 わたしも、自分は動けませんが、ぬいぐるみたちだけで世界中や日本中に出かけてもらい、消息をときどき聞けるのはとてもうれしいです。それもひとつはネットのおかげですね。 ありがとうございました。

庭にお住まいの方々

イメージ
この頃、毎朝というくらい裏庭にヤマガラが来ます。 たぶん、大好きなエゴノキを見に来ているのでしょう、実が熟すのが待ちきれないのかな・・・ でも今年は実りが少なくて・・・ほとんど成っていません。 あんなに花が咲いて、蜂もいっぱい来ていたのにね。 ケルシーの木 コンクリートの壁面に垂直にとまったり、枝からぶら下がったり・・・まるでサーカス。 かなり近くまで来てくれるのですが、なかなか画像には捕えられなくて。 早朝など、スズメやシジュウカラ、ヒヨドリやガビチョウ、メジロやソウシチョウ、コゲラなども来て、年に2個くらいしか結実しないケルシー(日本で作られた李の品種・巴旦杏ともいう)の木や、エゴノキや、その隣にある早生柿「人丸」の枝で虫取りなどしています。 彼らは夏の終わりから春先まで・・・今頃から野鳥のカラ類はメジロなどと共にカラ混群といわれるグループを作って一緒に行動しています。 今年はたった一つのケルシーの実。晩生で熟すのは9月初めだし、少し黄色っぽくなるだけで赤くならないから、鳥に横取りされることは少ないんだけど、食べられるのは年に1個かせいぜい3個くらい ヤマガラが時々とっついているコンクリートの壁。いい具合に苔が生えてる シジュウカラ、ヤマガラ、コガラやヒガラ(標高の高いところ)、そしてとってもかわいくてファンの多いエナガも。コゲラはキツツキの仲間ですが、よく一緒に行動しています。残念ながらエナガはまだ少し標高の高いところにいるらしく、姿が見えませんが、エナガはかわいらしい声で鳴きながら移動するので、来たらすぐにわかります。ヤマガラと同じく好奇心が強く、かなり近くまで来てくれるので楽しみです。もっと秋になったらたぶんまた来てくれるでしょう。その頃は葉が落ちるので、今より良く見えるし・・・ ベッドから見える裏庭 これも裏庭

ある日のお客さん

イメージ
夜、明かりに飛んできたニイニイゼミと、ノコギリクワガタ、それからご近所からいただいた収穫物、そして、早朝自分で摘んできた「ボイソンベリー」・・・ ニイニイゼミ ノコギリクワガタ ボイソンベリー ご近所からいただいた収穫物

本の紹介

イメージ
わたしの情報源は、 新聞・・・毎日配達される、朝日新聞の朝刊・夕刊、熱海新聞 テレビ・・・新聞のテレビ欄でチェック ネット・・・本の通販、食材の通販など数か所 だけなのですが、おかげさまで、ほかに毎週配達してくれる、生協のカタログとでほとんど全ての生活が成り立っています。 買い物は行けないので(立っていられないし、物を持って歩けないので。いまだに垂直が・・・年中舟の上のように揺れてしまって、焦点も合いにくいので情報のチェックそのものも、長時間は不可) その割に、不思議なことに欲しい情報は向こうからやってくる感じがして、十分足りています。これ以上の情報があっても処理しきれないので、ちょうどいい感じ。 で、この本も新聞で紹介されていたか、広告を見てネットで買いました。 ご自身が末期のがんで、余命宣告をされていた著者が、単身フランスに渡って美術館に行き、喉の渇きからそれまで嫌いだったトマトを食して、それから食べることに目覚めて、フランスで料理学校に通い、中国で薬膳も学んだというお話。 死にかけて、ようやく自分の体と向き合って、体が求めているものを食すことによって、現代医学では完治しなかった病気を克服できたという物語と、ご自身の体験から学んだ、体が喜ぶ食材やレシピも紹介されています。 理屈から言っても、体を作っているのはまさに毎日食べている食べ物だし、それを美味しく、上手に摂ることは、生命体としての人間のもっとも大切な営みであるはずです。伝統食の和食は、まさにそういうものだったはずですが、自分の身に置き換えて考えても、近ごろはきちんとした和食を毎日摂るのは難しく、ついついジャンクフードやインスタント、冷凍食品に頼りがち。そして、足りないものはサプリメントと言われる補助栄養で過剰に摂取する、という生活になってしまいます。 健康なときは、それでも何とか生きていられるけど、心身ともに生活を楽しむためには、先人が研究してきたものに学ぶというのは、悪いことであるはずはありません。 本人や身内の病気で苦しむ人にも教えてあげたいな、と思うような本でした。