たぶん、わたしは単に運がいいんだと思います。
だって、まだ生きてるし、今までにやりたいことが見付かってずっとやってきたんだから。
人生、ほんの少し前まで50年だったし。
それは優に超えてる。
震災にも戦災にも合ってないし。
で、最近思うのだけど、元の生活を取り戻すためには、相当の覚悟というか意志が必要なんだと思う。どうも「体幹機能障害」というのは治らないらしい。
前例が無いってのを、わたしが前例になってやろうじゃないの、ってぐらいの意志がないと、アスリートや宇宙飛行士にはなれないのだろうと思う。
もちろん、運や偶然ってのもあるだろうけど、やっぱり具体的なビジョンだよね、というか意志かも。
生命はそもそも、他者の役に立つってことが生きてる意味だから、自分の為だけだったら頑張れないんだね。
そう考えると「母の物忘れ」とのバトルで自己嫌悪に陥ることが多かったんだけど、それも今の生活の為になってる気がする。
だって、何でもしてくれる、健常者の同居人がいたら、わたしは寝たきりになってたと思う。
ずっと考えてた、自分が帰ってきた意味みたいなものが、少し見えてきた。
もちろん、生きることに意味なんてない、そんなのナンセンスっていう意見もあるし、それを否定するつもりもないけど。
でもね、今までずっと、やまねの仕事の原点にもなってた自分に出来ること、や、やって来たことの延長線上にそれがある気がする。時々、現実、つまり脳が壊れたおばさんの自分が見えて愕然とするけど。
頑張れないし、頑張る必要もなく。
なんとなく、何かに導かれて日々を過ごすうち、寿命が終わっちゃうんだろうね。
人間だって、生物だから。
寿命の長さの違いなんて100年もないし、地球の歴史上、点にもならない。
そもそも、長いほうが良いとは限らないし。
と最近は思います。
生きられるだけ、諦めないで生きる。
なぜってそれがおとなのつとめだから。
子どもが居ようと居まいと。
寒の戻りがあるらしいけど、もう春です。
2015年3月25日水曜日
2015年3月1日日曜日
最新の脳科学? ② くも膜下出血後遺症の希望
番組後半で特集していた、8年間のドキュメントで先天性の小脳欠損がある女の子のことを追っていました。
生後しばらくして、発達が遅れたことで親御さんが異常に気づき、専門医・・・と言っても症例が少ないので10件未満でしたが・・・大学病院で、筋肉などのリハビリをして、8歳の今、普通の小学生に成長した、というドキュメンタリーです。普通の、と言っても本人にとってはいくらかの不自由はあるのでしょうが、画面で見る限り、走ったり、歌ったり、踊ったり出来て、少しおしゃまなかわいい少女でした。
もちろん、すべての人がこのようにいろいろな機能を獲得出来る保証はなく、この大学病院でも、7人の症例のうち、歩けるようになった人は一人、とのことだったので、ここまでになるのには、本人の努力ももちろんですが、親御さんのご苦労は並々ならず。普通の人には計り知れない毎日の積み重ねがあったのだろうと推測されます。つまり、何もしないで自然に、はあり得ないし、そうかと言って不可能ではない、ということだと思いました。
不可能、とあきらめた時点で、可能性はなくなってしまう。
可能と考えて日々、「慣れ」を獲得するべく「学習」すなわち適切な運動や日常生活を自主的に繰り返すこと。それが日常を再獲得するための唯一の方法だと、教えられた気がしました。
本当に、わたしにとってはタイムリーでベストな企画。
このように、テレビ番組や「ひらめき」に導かれて、リフレクソロジーといわれるマッサージや、整体、病院でのリハビリや「老人ジム」(筋トレや体操に特化した半日のデイサービス)三昧な日々・・・
おかげさまで懸案だった眼科の検診にも最近行けて、視力はほぼ2年前と同じ程度、視野の異常も特になし、ということでした。
それでも焦点は合いにくいし、瞬間見えてもその状態が持続しないのですが、たぶんそれは筋力や持久力の問題だろうと勝手に思っています。
去年の12月初めに、ようやく力が入る、という感覚がもどりました。
わたしはいわゆる片麻痺ではなくて、強弱の差はありますが両側に麻痺があったので、それまで体中のどこにも力が入らなかったのです。
そして、入るようになってようやく、今まで入っていなかったとわかった。1年近く、この状態で認知症未満の母と生活してきたというのが信じられませんでした・・・
しかし、そんな中、友人・知人による様々な「うれしいこと」が本当に「まんべんなく」続いて、そのおかげで凹みはしても、「あきらめない」でやってこられたとつくづく思います。
庭も春めいてきて、これからが楽しみです。
生後しばらくして、発達が遅れたことで親御さんが異常に気づき、専門医・・・と言っても症例が少ないので10件未満でしたが・・・大学病院で、筋肉などのリハビリをして、8歳の今、普通の小学生に成長した、というドキュメンタリーです。普通の、と言っても本人にとってはいくらかの不自由はあるのでしょうが、画面で見る限り、走ったり、歌ったり、踊ったり出来て、少しおしゃまなかわいい少女でした。
おみやげに頂いた「東京・花市場の最新の切り花」を 自作の陶作品ととも玄関先に飾ってみた~ |
もちろん、すべての人がこのようにいろいろな機能を獲得出来る保証はなく、この大学病院でも、7人の症例のうち、歩けるようになった人は一人、とのことだったので、ここまでになるのには、本人の努力ももちろんですが、親御さんのご苦労は並々ならず。普通の人には計り知れない毎日の積み重ねがあったのだろうと推測されます。つまり、何もしないで自然に、はあり得ないし、そうかと言って不可能ではない、ということだと思いました。
不可能、とあきらめた時点で、可能性はなくなってしまう。
可能と考えて日々、「慣れ」を獲得するべく「学習」すなわち適切な運動や日常生活を自主的に繰り返すこと。それが日常を再獲得するための唯一の方法だと、教えられた気がしました。
本当に、わたしにとってはタイムリーでベストな企画。
このように、テレビ番組や「ひらめき」に導かれて、リフレクソロジーといわれるマッサージや、整体、病院でのリハビリや「老人ジム」(筋トレや体操に特化した半日のデイサービス)三昧な日々・・・
おかげさまで懸案だった眼科の検診にも最近行けて、視力はほぼ2年前と同じ程度、視野の異常も特になし、ということでした。
それでも焦点は合いにくいし、瞬間見えてもその状態が持続しないのですが、たぶんそれは筋力や持久力の問題だろうと勝手に思っています。
庭先の春の花たちいろいろ |
庭先の春の花たちいろいろ |
庭先の春の花たちいろいろ |
わたしはいわゆる片麻痺ではなくて、強弱の差はありますが両側に麻痺があったので、それまで体中のどこにも力が入らなかったのです。
そして、入るようになってようやく、今まで入っていなかったとわかった。1年近く、この状態で認知症未満の母と生活してきたというのが信じられませんでした・・・
しかし、そんな中、友人・知人による様々な「うれしいこと」が本当に「まんべんなく」続いて、そのおかげで凹みはしても、「あきらめない」でやってこられたとつくづく思います。
長崎の友人が送ってくれた「桃カステラ」 |
庭も春めいてきて、これからが楽しみです。
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