ねこの思い出 その1

すごーく前のアルバムに旧友を発見しました。スキャナーで取り込んでみました・・・

今から三十云年前。

専門学校生だったわたしは、品川区の母方のおばの家がアパートだったので、その1室に住んでいました。フォーク(音楽)全盛の頃、4畳半一間に小さな流しとガス台が付いていました。今では考えられませんが、昭和50年代の東京では、そんな六畳一間に家族が住んでいた時代です。お風呂は銭湯。でもわたしはおばさんちのお風呂に入れてもらっていたので、銭湯はたまにいとこと一緒に行くのが楽しみでした。

銭湯に行く途中に縁日が立つので、その日にちをねらってよく行きました。
日暮れの白色灯のなか、様々な出店をひやかして歩くのが楽しかったな~今ではセピア色の思い出です。
あるとき、玄関のドアの外に、魚をくわえた猫が一匹いました。
すぐ近所に公共市場があって(たぶん終戦後に作られてずっとそこにあった、魚屋さんや八百屋さん、歯医者さんやパーマ屋さん、などが出店していました。並びに焼き鳥屋さんもあったな)、たぶんそこから失敬してきたか・・・猫はわたしを見て、逃げようとしました。




逃げようとした猫に声を掛けたら、振り向いた猫と目が合いました。
そして、彼女とのその後数年に及ぶ友情が、その瞬間に芽生えたのでした。わたしはそのねこを「あいちゃん」と呼んでいました。目→eye・・・がとても大きく、いとこが名づけたのでした。三毛猫で尾が長く、ほっそりしていて綺麗な猫でした。そして、気品があって美しかった。

愛想が良くて、たぶん生活の知恵でしょうね。後からわかったのですが、今で言う地域猫のように、ご近所のあちこちでいくつもの名前で呼ばれていたようでした。きっと、最初は飼い猫だったのでしょう。引っ越しで置いていかれたか、捨てられたか。もう成猫であまり若くない印象でした。

付き合いがあるうちに3回子どもを産んで、最初のときは子どもをわたしに預けて餌を探しに行きました。連れてきて、置いて行っちゃうのです。子どもたちはそんなに人なつっこくはないのですが、しょっちゅう預けられているうちに触らせるくらいには慣れました。何回目かのうちに、抱っこして部屋の中に入れたらパニックになって、ああ、やっぱり野良だなって思ったものでしたが、触るくらいは許してくれました。母の友人のおばちゃん、というところでしょうか。




そのうち、大家さんちの物置とか、わたしの部屋の押し入れや2階の共同流しの下とか、住居に侵入して目の開かない子猫を発見するに至り、いくら姪とはいえ店子の身なので段ボールを用意してみたり・・・でも気に入らなくてどこかに連れて行ったりしながら、何匹かが育ち、子猫のうちに誰かに連れ去られたり(とても人懐こい子だったので、拾ってもらったんだと思いたい)、巣だってぼろぼろになって帰ってきて、次の子どもと一緒におっぱい飲んでたり・・・6匹生まれたときは育ちの悪い1匹が時々来ていた別のいとこの車の下に入っていて、轢かれたり。嫌がる厚生物質を飲ませたばかりだったので、ショックでしたが6匹の野良ちゃんが、全部育つと考える方に無理があったわけで。
最後の2匹はご近所の塀の間から追い出されたとき、2匹ともいわゆ猫はしかで目が見えず、獣医さんに連れて行ったのですが一匹はその日に息絶えて、もう一匹は脳にウィルスが入ってしまい、母猫を攻撃するようになって、結局一週間くらいしか保ちませんでした。今の時代だったら、近所迷惑でトラブルになるところでしたが、当時はまだ「いい時代」だったので、野良猫も放し飼いの犬も、地域の住人だった気がします。

そして、猫の親友はそれから数年後、近所の猫好きなおばあちゃんに引き取られ、避妊手術をしてもらったようでした。たまにはわたしのところにも顔を出すという感じでしたが、最期のとき、1週間くらいかな、毎日出勤するわたしを戸の外で待っていました。お腹空いてるのかな、と牛乳や煮干しをあげても食べないで、ただ顔を見て「にゃー」というだけ。ある朝、ぱったり来なくなって、ご近所で聞いたら、その時の飼い主さんが猫が居なくなって探していると・・・

ああ、お別れだったんだな、と思いました。

猫とは親友になれる気がしました。

犬とは、個体間ではなくて、死んでからも代々、人との付き合いは有史以来。
遺伝子に共通の変化もあると聞くくらいで、種としてのお約束があると感じますが、猫とは個と個としての、友達関係が成立すると、わたしは思います。
そして、この時から現在までに、何匹かの猫と友達になりました。
これは、その最初の猫です。

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