育種・・・神の領域?
ちょっと重い話題ですが・・・書いてみます。
パンジー・ビオラをはじめ、植物の受粉を人為的に行って新しい品種を作り出すことを一般的には品種改良などと言いますが、専門用語に育種という言葉があります。
種を育てると書きますが、要は受粉をした種を播いて結果を品種として固まるまで受粉・採種・育苗を繰り返すことをいいます。農作物ではより収量を多くしたり、病気に強いものを作ったり、収穫期を早めたり、つまり利用する人たちにとってより良くするということで品種改良とも言うわけです。
もちろん、収穫量を減らしたり、病気に弱くするなどマイナスの方向にたいしての育種というのはある意味ありえませんが、一方で都合良くというだけでなく花で言えばいろいろな色のものを作るとか、大輪や逆に小輪のもの、花型の変化や八重咲きなど、バリエーションを増やすことも育種と言います。それは、人為的な選択交配によるもので動物に対しても行われています。牛や馬などの家畜や、犬、猫、小鳥など、人が養うというかたちで一緒に過ごした歴史の長いいきものたちはそのように育種されてきました。
先月の終わり頃のことです。新聞の番組表の中に「世界のドキュメンタリー」というタイトルを見つけました。内容が犬の遺伝病に関するものだったので、深夜だったのですががんばって見ることにしました。
BSの番組でイギリス、BBC製作、2008年のものです。工房の一員だったフラットコーテッド・レトリバーの「デイジー」とそのこどもたちの一部をたぶん遺伝的疾患であろうものによって失ったのはここ数年のことです。そして、日本ではまだそのような遺伝病の存在さえも一般の人たちにはほとんど知られていません。愛犬家で知られるイギリスではどうなっているのだろう・・・と思って見たのですが、結果はかなりショックな内容でした。
今までの自分の認識では、犬や猫に対して変わったものを求める傾向はアメリカでは顕著で、固定(概ね遺伝的に劣性であるそのような特徴を世代を繰り返しても表現させること)するために近親交配を繰り返すことが普通に行われている。だが、愛犬家の国イギリスや、ドイツでは特にそのような生物の本来的な特徴をゆがめる育種は避けられている・・・というものだったのに、それがみごとにひっくり返される中身でした。
ドイツについては、このドキュメンタリーでは触れられていませんでしたし、確認のしようもないのでわかりません。しかし、自分の生知恵では犬種の好ましい標準的な特徴を文書で書いたいわゆる「スタンダード」というものが、国によっていくらか違うもののイギリスのそれが基準になることが多い、とかドイツでは犬種の特徴よりも犬という種の基準を優先して例えばダックスフントでも足がいくらか長いらしいというような認識はありました。
そして、実際長い歴史のあるイギリスでもっとも権威があると言われるドッグショー「クラフツ」での映像はまさにショック、の一言でした。つまり、ショーで優勝したスタンダードそのものの腰を落として歩くジャーマンシェパードの歩き方は、BBCが言うように骨格形成不全のよろよろ歩きそのものだったし、鼻が顔の中心にめり込み過ぎたパグやペキニーズは、健全な生命を維持するのに外科手術が必要でも、高額で取引され繁殖に供されるという現実がそこにはあったのです。中にはある種のスパニエルのように、頭蓋に入りきれない脳を持つという遺伝病がかなりの高率で現れる犬種もあって、何も知らずにそういう犬種の子犬を家族に迎えた人たちの苦悩や、犬種そのものの存続危機などもあぶり出すように描かれていました。
見方を変えれば、そこには愛犬家が多いと言われるイギリスで、じつはやはり利益のために犬たちの命すら勝手に作り変える人間の傲慢と、それを暴き、世に問う紳士の国の良心とが同時に表現されていたと言えるでしょう。
翻って日本、たぶんイギリスで起こっていることは同じように日本でもあるんだろうなぁ、という予測。「スタンダード」に対する厳格さは日本ではイギリスほどではないかもなぁ、といういくらかの楽観。また日本ではそれより流行に左右されることのほうが多いんじゃないかしら、というような感想も。いずれにしても、ここ20年くらいの間に地球に起こったボーダーレスは、生物の種においても生活においても、以前とは比べものにならないくらい早さで世界中のあらゆるいきものに対して起こっているのだなぁという認識が、「豚インフルエンザ」も含めてずどんと響いた出来事でした。
海の向こうの遠いお話、ではないのです。我が家のデイジーに起こったことは、じつはイギリスやアメリカではとっくに起きていて、その事実は知ろうと思わなければわからないまま、また別のところで同じことが起きる。なによりそれは自然に起こったことではなく明らかに人の手によって起こされたことだということ。しかし、それを人の手で元に戻そうとしても簡単にはゆきそうもないこと。そんなことを考えると、たとえ花の育種であっても例えば八重咲きを作ることは一種の変異、いわゆる劣性を固定することであってはたして良いことなのだろうか?という疑問が湧いてきます。植物の場合は世代の交代が早いこと、遺伝子の中にある表現はその種が本来持っているバリエーションであり、自分のやってる育種はその表現のお手伝いをしているようなものだから・・・というようなこじつけをしてみたりして。
しかしなぁ、人の歴史や文化とも密接に関連するような気がするし、ある種の美意識や文化に関することは人種や地域によって異なるね・・・などと頭の中がどうどう巡りになってしまうテーマでした。
でも、バリエーションの違いは多くてもいいけど、人は、生物を生命の維持が困難になるほどいじくってはいけない、んじゃないかとわたしは思いました。
パンジー・ビオラをはじめ、植物の受粉を人為的に行って新しい品種を作り出すことを一般的には品種改良などと言いますが、専門用語に育種という言葉があります。
種を育てると書きますが、要は受粉をした種を播いて結果を品種として固まるまで受粉・採種・育苗を繰り返すことをいいます。農作物ではより収量を多くしたり、病気に強いものを作ったり、収穫期を早めたり、つまり利用する人たちにとってより良くするということで品種改良とも言うわけです。
もちろん、収穫量を減らしたり、病気に弱くするなどマイナスの方向にたいしての育種というのはある意味ありえませんが、一方で都合良くというだけでなく花で言えばいろいろな色のものを作るとか、大輪や逆に小輪のもの、花型の変化や八重咲きなど、バリエーションを増やすことも育種と言います。それは、人為的な選択交配によるもので動物に対しても行われています。牛や馬などの家畜や、犬、猫、小鳥など、人が養うというかたちで一緒に過ごした歴史の長いいきものたちはそのように育種されてきました。
先月の終わり頃のことです。新聞の番組表の中に「世界のドキュメンタリー」というタイトルを見つけました。内容が犬の遺伝病に関するものだったので、深夜だったのですががんばって見ることにしました。
BSの番組でイギリス、BBC製作、2008年のものです。工房の一員だったフラットコーテッド・レトリバーの「デイジー」とそのこどもたちの一部をたぶん遺伝的疾患であろうものによって失ったのはここ数年のことです。そして、日本ではまだそのような遺伝病の存在さえも一般の人たちにはほとんど知られていません。愛犬家で知られるイギリスではどうなっているのだろう・・・と思って見たのですが、結果はかなりショックな内容でした。
今までの自分の認識では、犬や猫に対して変わったものを求める傾向はアメリカでは顕著で、固定(概ね遺伝的に劣性であるそのような特徴を世代を繰り返しても表現させること)するために近親交配を繰り返すことが普通に行われている。だが、愛犬家の国イギリスや、ドイツでは特にそのような生物の本来的な特徴をゆがめる育種は避けられている・・・というものだったのに、それがみごとにひっくり返される中身でした。
ドイツについては、このドキュメンタリーでは触れられていませんでしたし、確認のしようもないのでわかりません。しかし、自分の生知恵では犬種の好ましい標準的な特徴を文書で書いたいわゆる「スタンダード」というものが、国によっていくらか違うもののイギリスのそれが基準になることが多い、とかドイツでは犬種の特徴よりも犬という種の基準を優先して例えばダックスフントでも足がいくらか長いらしいというような認識はありました。
そして、実際長い歴史のあるイギリスでもっとも権威があると言われるドッグショー「クラフツ」での映像はまさにショック、の一言でした。つまり、ショーで優勝したスタンダードそのものの腰を落として歩くジャーマンシェパードの歩き方は、BBCが言うように骨格形成不全のよろよろ歩きそのものだったし、鼻が顔の中心にめり込み過ぎたパグやペキニーズは、健全な生命を維持するのに外科手術が必要でも、高額で取引され繁殖に供されるという現実がそこにはあったのです。中にはある種のスパニエルのように、頭蓋に入りきれない脳を持つという遺伝病がかなりの高率で現れる犬種もあって、何も知らずにそういう犬種の子犬を家族に迎えた人たちの苦悩や、犬種そのものの存続危機などもあぶり出すように描かれていました。
見方を変えれば、そこには愛犬家が多いと言われるイギリスで、じつはやはり利益のために犬たちの命すら勝手に作り変える人間の傲慢と、それを暴き、世に問う紳士の国の良心とが同時に表現されていたと言えるでしょう。
翻って日本、たぶんイギリスで起こっていることは同じように日本でもあるんだろうなぁ、という予測。「スタンダード」に対する厳格さは日本ではイギリスほどではないかもなぁ、といういくらかの楽観。また日本ではそれより流行に左右されることのほうが多いんじゃないかしら、というような感想も。いずれにしても、ここ20年くらいの間に地球に起こったボーダーレスは、生物の種においても生活においても、以前とは比べものにならないくらい早さで世界中のあらゆるいきものに対して起こっているのだなぁという認識が、「豚インフルエンザ」も含めてずどんと響いた出来事でした。
海の向こうの遠いお話、ではないのです。我が家のデイジーに起こったことは、じつはイギリスやアメリカではとっくに起きていて、その事実は知ろうと思わなければわからないまま、また別のところで同じことが起きる。なによりそれは自然に起こったことではなく明らかに人の手によって起こされたことだということ。しかし、それを人の手で元に戻そうとしても簡単にはゆきそうもないこと。そんなことを考えると、たとえ花の育種であっても例えば八重咲きを作ることは一種の変異、いわゆる劣性を固定することであってはたして良いことなのだろうか?という疑問が湧いてきます。植物の場合は世代の交代が早いこと、遺伝子の中にある表現はその種が本来持っているバリエーションであり、自分のやってる育種はその表現のお手伝いをしているようなものだから・・・というようなこじつけをしてみたりして。
しかしなぁ、人の歴史や文化とも密接に関連するような気がするし、ある種の美意識や文化に関することは人種や地域によって異なるね・・・などと頭の中がどうどう巡りになってしまうテーマでした。
でも、バリエーションの違いは多くてもいいけど、人は、生物を生命の維持が困難になるほどいじくってはいけない、んじゃないかとわたしは思いました。
【星になったテディ】
コメント
コメントを投稿