病気後の初仕事

細かい作業や大きなもの、重たいものは出来ませんが、ちょうど良いくらいの?お仕事を頂いたのでやってみました。

「種差海岸インフォメーションセンター」のウミネコの雛。





画像を見て、商品のたんちょうのひなをアレンジしたら出来そう?と思ったので、縫製は遠藤さん(やまね工房製品の縫製をお願いしている)に頼んで、足は水かきが付いていて違うので、新たに型を起こしてうちのスタッフに縫製してもらおうと。
仕上げは時間かかりそうだけど・・・で、ひと月弱で出来ました。

卵のレプリカや「ウニ」の展示と一緒にウミネコの一大繁殖地、蕪島の近くにある、上記のビジターセンターに設置、無事オープンしたということです。
お近くにいらっしゃる機会がありましたら是非。

わたしはまだ公共交通機関ですら「夢」なので、当分無理ですが、時間はたっぷりあるので、行ってみたいところは増える一方です。
いくらでも動けるときは、もちろんお金もなかったけど暇が全然無かった。
それでも好きな仕事ばっかりやりがいもあったし、行けなかったことは全く苦になりませんでしたが。そのうち、行けるようになったらいいな~高齢の母が動けるうちに、もう一度網走にも連れて行きたいし、沖縄・石垣島、京都も。

今回、この仕事は「まだ早いかな~」と思ったのですが、ひとつは東北地方であること、もうひとつはこんな当てになるかどうかわからない状態のわたしに、仕事をくださる心意気がありがたいと思って。

今から考えるとあの「血管事故」は、もちろん直前の決算や東京通勤などの超多忙、締切仕事やボランティアの過労、犬の死や、様々な能力をはるかに超えたストレスが原因と考えられますが・・・遠因には、あの東日本大震災があったと感じています。

ずっと環境保全や人間を含めた生きものたちのことを考えてきて、あの大きな災害を目の当たりにし、当地は直接の被害を受けなかったものの、であるからこその無力感。何かしたいけれども出来ないもどかしさや政治の在り方についての疑問など・・・とりわけ原発事故。毎日地震や事故関連のニュースから目が離せない、が、自分には何も出来ない。それでも、2度くらい当時の管首相官邸に意見書を送ってみたり・・・

そして3年、原発事故当時の施設長、吉田さんの死と、あれを教訓にしたとは思えない政治が、たった3年で、まだ何も片付いていないのにまるでなかったかのように経済優先で動いている現実。たぶん、それに半ば絶望したのだと思います。

でも、生き返ってみて、身の回りや報道の中に、政治は変わっていなくても、生き方や考え方を変えた人たちが確かにいると確信できました。
ゆっくり考える時間と、自分も出来ないことがいっぱいの身になってみて、見えていなかった部分が見えてきたのかもしれませんね。

翻って、自分に何が出来るか?
オトナの務めはあきらめないこと。
自分に子供がいてもいなくても、オトナとしていつも希望を持ち、出来れば機嫌
よく楽しんで生きる。笑顔は伝染るとわたしは思います。

科学的に、根拠をもってダメだしをしても、悲観してしまうだけです。
まずは自分が生きていることを楽しまなくちゃ、と思うんですけどね、なかなか
思うようにはいかないものです。

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