ちょっとご無沙汰しました。

一日一日はとても長く感じられるのに、一週間、ひと月の早いこと。
そして連続した時間の長さに比べれば、良くなった感は少なくて、むしろ以前(病気になる前の自分)と比べて何もできなくなってしまった・・・がクローズアップされるような気がします。


たぶん長い療養の間に落ちてしまった筋肉や、体力に由来するのでしょうし、だんだん慣れるしかないというのも頭ではわかっているつもりなんですが。
自分の体が重たくて・・・これは足首の靭帯を伸ばして体の自由がきかないときと似ているな、と思います。その経験は比較的はっきり覚えています。

それ以前も、靭帯が治癒した以後も、体は軽かったのに。
頭の血管が切れて・・・切れるということは、当たり前ですが自動でつながらなくなっちゃうということだ、と最近気が付きました。
だから、少なくとも一年くらいはつながりを育ててゆかないと、もとのようには機能しないのではないかと。


暦の上で一年は人が決めたことですが、季節の巡りというか、生物の営みは太陽の動きでひとつの単位になっているわけだし。
7月18日に倒れて、8か月経過する今でも時系列や文字列は少しうまくつながらないところがあります。名前と顔がなかなか一致しなかったり、時間の約束をときどき忘れたり。いったん覚えたと思っていても、しばらく間が空くと忘れちゃってたり・・・それが一定ではなくてばらばら・・・

ところで、7月に倒れて9月の時点で、まだほぼ寝たきりで口から飲食が出来なかった頃、考えを文字にしたり、とりわけ絵は描けました。
文字はみみずなのに、絵の線はなぜかぶれない。
これはわたしの私見なのですが、つまり、頭の中で自分がイメージしたことは描くことが出来るけれども、学習して(たとえ学ぶときにそう思わなくても強制されて)使っていた文字や数字はスムーズに出力できないのですね。
つまり学習によって獲得した技術は血管が切れて振出に戻ってしまった。
それどころか反射で動くはずの手足も意志で動かさないと動かない。
もしかしたら、反射で動くと思っていたことも赤ちゃんから歩けるようになる時に獲得した技術かもしれません。




ごく最近、知人の訃報に相次いで触れ、ふと考えたのですが、病気や死というのは自己否定のニュアンスが強く、ともすれば不幸の象徴みたいにとらえがちです。
でも、自己肯定に寄り添ってくれる(共感してくれる)人さえあれば、たとえ死んでしまったとしても生まれてきてよかったと思えるのではないかな?
いい人生だったと。
自己とは何でしょう?それはきっと自分からは見えないんだと思います。
他者とのやりとりで初めて外側から自分がわかります。

一方、進んだ医学で命が助かったとしても、自身で自己を肯定できなければ、命は助かったが患者は死んだ、ということになってしまうかもしれません。

家族とか、あるいはそこに居合わせた誰かでも、生まれてきてよかったという思いを共感してもらえれば、幸せな人生だったと思えるのではないでしょうか。
生まれてきてよかったと思って死ななくちゃ、もったいないです。
この幸せはお金で買えるというものではないと思います。


頃は春、外では新芽が発芽し、野鳥がさえずっています。
今日は鳥たちに話しかけました。
ちゃんと通じますよ、傍から見たらちょっと頭変なひとと思われちゃうかもですが、わたしは倒れる前からそういう人です。

異種間でも、植物でも、気持ちは通じると信じています。

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