さとやま暮らし

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2015年1月1日木曜日

幸福感とは


「幸せ」は物質ではない。
そしてそれは感性でのみ感じられることで、「今」という瞬間なんだと思う。だから、継続はあり得ない。
それはたぶん、他者との共感や共振そのものであって、人間同士である必然はなく、多種の生命、ひょっとしたら鉱物などの無機質ともあり得る。
すなわち、「美しい」「心地よい」と感じるものをその瞬間共有すること。
それは個々の魂が記憶する。たぶん、種や時間経過を越えて。

でなければ、この世界がこんなに美しいもので覆われているはずがない。

求めよ、さらば与えられん・・・
人類の特技は想像すること。
たぶん、他の生物は未来という定義を持たずに生きている。だから、自分たちの曼荼羅上での役割を見失うことがないのだ。人類は未来のことも過去のことも考える。
若いうちは学習出来たので、過去に学んでいたけれど、たぶん口承で伝えていたころには大切なことは伝えられたのだが、それを言葉に置き換えて記録してから伝える方法を編み出してからは、大切なことがこぼれて落ちちゃったんだろうな。

おとなの務めはあきらめないこと。

今必要なのは、本来のタペストリーに戻るための具体的なビジョン。
具体的であれば共有しやすいし、なにより実現する。

求めよ、されば与えられん・・・利己のための求めではなく。
しかし、具体的なイメージにまで高めなければ実現はない。
表現者は、感性でイメージを描く。
そしてそれを表現するのは技術であって、これは磨くというか技術の学習で習得できる。だから、当然技術の習得は必要なのだが、ビジョンがないところに表現はあり得ない。
感性はたぶん、半分以上は天性というか個々が持っているものだ。
そう考えると、過去にその魂が経験した記憶・・・すなわち、輪廻転生というものの存在に考えが至る。

わたしたちは今、未来をあきらめかけているが、おとなの務めはあきらめないこと。
どうすればいいのか、少しわかった気がする。
「みんなで理想の未来をイメージすること」


臨死体験をする前、考えたら広げた風呂敷をどう畳むか、そればかり考えていた気がします。
つまり、「やまね工房」はわたしが作ったもので、わたしには寿命があり、この経済社会の寿命とともに、わたしにはそれを閉じる責任があるのだと。
突然、事故のように日常を失ってみて、初めて「やまね工房」がしてきたことが見えました。
いつの間にか30年の月日がたち、「わたし」ではなく「やまね工房」がしてきたことは、こどものころの「家族との幸せな思い出」を作ってきたこと。それは、そのこどもが子どもを持って、また幸せな思い出を作る、という連鎖を生んでいるらしい・・・
出来れば、この連鎖を「わたし」の肉体がなくなっても続けたい、と思うようになったのです。

それは決して一人で考えることではなく・・・
このネット時代だからこそ、みんなで考えたいな~と思って。

まだ「イメージの種」ですが・・・
いいアイディアがあったら教えてね。

2 件のコメント:

  1. けいこさん

     昨日は、お電話で久しぶりに、女子会をした気分になりました。人生の宿題を思い出し、
    なんとか、今年力をいれますので。

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  2. 匿名さんへ

    お話できてうれしかったです。
    これからもよろしくお願いします。

    とりあえず、座っていることは出来るので、これからもできることを探してゆきたいと思っています。

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