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最新の脳科学? ①

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先日、TBSの特番で、「人間とは何だ・・・!?」というのを見ました。 最新脳科学ミステリー、という副題が付いていましたが、生命38億年スペシャルというおまけも。 新聞広告に脳と心、心と心・・・その"つながり"を探る  という番組で、4時間の長さなので、全部は真剣に見られませんでしたが・・・ その中で、臨死体験後の「情報が向こうからやってくる」体感をまた体験しました。 ひとつは「メトロノーム」が、ばらばらにスタートさせても、そのうち一つに同調する、というものです。 たまたま毎週通っている「リフレクソロジー」というオイルマッサージの先生と、「幸福感」について話しているときに、ひょっとしたら、わたしたちが「生命」と呼んでいるもの以外の物質も、同じように共振したがっているのかも・・・というふうな話題になり、彼女がそういえばメトロノームって、ばらばらにスタートしても同調しちゃうらしいですよ、と言っていたのが印象に残っていたのですが、確認する術もなく・・・ 番組の中で100個のメトロノームを同じスチロフォームの板の上に載せて宙刷りにしてから全部ばらばらにスタートさせて、およそ2分ですべてが同調する、という実験をしていました。 その関連で、アマゾンの原住民が、カエルの毒を塗った吹き矢で「狩り」をするとき、同じジャングルの大地の上で、音声や合図でやり取りすることなく、チームプレーで狩りを成功させる、というものを説明してしました。 つまり、言葉や合図といった伝達方法をとらなくても、いわば以心伝心というか電波のように土台の地面を通して、脳から脳へ伝わるらしい・・・ということでした。 ま、説明は少し無理があるようにも感じられましたが、それはつまり、他の「群れ」で狩りをする生物みんなに言えることで、そのほうが単独で狩りをするより成功率が高いからだと思います。そしてそれはたぶん「生まれつき」ではなく、幼いときから群れの中で仲間と同調することを学ぶからでしょう。 ライオンやオオカミたち、シャチやクジラ、人類も、石器時代からやってきたことです。 それが、今ようやくわかったというなら、人類は相当退化しちゃったのかも。そのように「狩り」をしてこなかったら、とっくに飢えて現代まで生きて来られなかったでしょう。 もうひとつ、この...

本の紹介 神(サムシンググレート)と見えない世界

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久しぶりに本の紹介です。 じつは読んでからかなり時間が経っていて、とても共感できたので知人にも配ったり・・・ ですが、読後感をまとめるのに時間がかかりました。何だかうまくまとまらなくて今まで一年近くおいてあったのです。 この本は東大の救急医療現場に現役でいらっしゃる矢作直樹氏と筑波大学名誉教授で遺伝学の博士、村上和雄氏の対談をまとめた体裁の新書本です。 久しぶりなので後書きを読み返してみて驚きました。 最初に読んだときは気づかなかったのですが・・・ わたしが臨死体験してから気づいたことが、そのとおり書かれていたからです。 臨死体験する前から、自然に近いところに身を置いていた感覚はあったし、40年に及ぶ植物育種の過程で植物の意志を感じていたということが関係しているのかもしれません。 つまり、遺伝学でいうところのDNAだけでなく、過去に経験したことが積み重ねられ、その意志が表現されるということ。魂の存在。 それは「量子」に関係するのではないかと、テレビ番組の情報などから考えていたのですが、村上氏も後書きに同じことを書かれていました。 前にも書きましたが、昆虫記を著わしたファーブルが、「死は終わりではない。 より高貴な生への入り口である」と言ったことや、宮澤賢治の鉱物にも魂があるという考え方。 昨年事故で亡くなったデザイナーのヨーガンレール氏が海岸や河原の石を拾うのがお好きで自然の造形より美しいものはない、とおっしゃっていた、ということも。彼は海岸で拾ったプラスチックの廃物をランプに加工して展覧会を開く計画をもっていたらしく。 宮澤賢治は別として、現代に生きる著者お二人も、わたしもですが東日本大震災とそれによって起こった原発事故が、「何かしなくちゃ、言わなくちゃ」という思いを駆り立てている気がします。みんなつながっていると感じます。 自然界の美しいもの。共感や共振こそが幸せで、科学や人が持つ能力はそのためにこそ使うべきである、(地球上の循環を阻害するのではなく促進する方向に)ということ。 生活のほとんどは慣れで出来ていて、学習することでたいていのことは出来るけれど。必要なのは本来もっているはずの生物としての感性で共感や共振すること。 科学者の両氏もたぶん、そのように考えられているのだろうと感じました。 人類の未来に!...

幸福感とは

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「幸せ」は物質ではない。 そしてそれは感性でのみ感じられることで、「今」という瞬間なんだと思う。だから、継続はあり得ない。 それはたぶん、他者との共感や共振そのものであって、人間同士である必然はなく、多種の生命、ひょっとしたら鉱物などの無機質ともあり得る。 すなわち、「美しい」「心地よい」と感じるものをその瞬間共有すること。 それは個々の魂が記憶する。たぶん、種や時間経過を越えて。 でなければ、この世界がこんなに美しいもので覆われているはずがない。 求めよ、さらば与えられん・・・ 人類の特技は想像すること。 たぶん、他の生物は未来という定義を持たずに生きている。だから、自分たちの曼荼羅上での役割を見失うことがないのだ。人類は未来のことも過去のことも考える。 若いうちは学習出来たので、過去に学んでいたけれど、たぶん口承で伝えていたころには大切なことは伝えられたのだが、それを言葉に置き換えて記録してから伝える方法を編み出してからは、大切なことがこぼれて落ちちゃったんだろうな。 おとなの務めはあきらめないこと。 今必要なのは、本来のタペストリーに戻るための具体的なビジョン。 具体的であれば共有しやすいし、なにより実現する。 求めよ、されば与えられん・・・利己のための求めではなく。 しかし、具体的なイメージにまで高めなければ実現はない。 表現者は、感性でイメージを描く。 そしてそれを表現するのは技術であって、これは磨くというか技術の学習で習得できる。だから、当然技術の習得は必要なのだが、ビジョンがないところに表現はあり得ない。 感性はたぶん、半分以上は天性というか個々が持っているものだ。 そう考えると、過去にその魂が経験した記憶・・・すなわち、輪廻転生というものの存在に考えが至る。 わたしたちは今、未来をあきらめかけているが、おとなの務めはあきらめないこと。 どうすればいいのか、少しわかった気がする。 「みんなで理想の未来をイメージすること」 臨死体験をする前、考えたら広げた風呂敷をどう畳むか、そればかり考えていた気がします。 つまり、「やまね工房」はわたしが作ったもので、わたしには寿命があり、この経済社会の寿命とともに、わたしにはそれを閉じる責任があるのだと。 突然、事故のように日常を失ってみて、初めて...

覚書 テレビ番組「プレミアムドラマ」

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12月のNHK、BSプレミアムドラマで「書家 金澤翔子さん」の番組を見ました。 「お母さま、しあわせ? 母と娘の・・・」という題が付いたいわゆるドキュメンタリードラマです。他にあと2話あって、かつて一世を風靡した故「ナンシー関」という消しゴムで作ったスタンプで芸能評論みたいな表現をしていた女性のものと、もう1話は沖縄の離島でドクターヘリを継続している現役の医師の話。 全部とてもおもしろくて感動できました。 なんか制作陣の気合いが入っていて、気持ちよかった・・・そういうのって見る側に伝わると思う。 で、その中の1話 彼女はダウン症を持っていて、ダウン症の…と言われることが多いのですが、今や「書家」として立派な表現者のひとりであり、他のダウン症の人々も感性がたぶん、普通と言われる人々よりもすぐれていると思われます。 ただ、表現する技術を学ぶチャンスが少ないので、まわりの人たちがそれを上手に作ってくれないと表現することは難しいのだと思います。 それはたぶん、翔子さんのお母さんのように、ほんとうに彼女を愛している人にしか出来ないような「忍耐」と「ある種の厳しさ」が必要なことです。 それは、親が子どもを育てるということの原点であるような気もします。 お母さんはたぶん、子どもより先に肉体を失うわけで、そうなったときに子どもが、まわりの人から尊敬される・・・人として扱われる・・・ような人に育てることが親としての役割だろうから。 思うに13番染色体の、1本多い1本は、現代に生きるわたしたちが「途中で失ったもの」なのかもしれません。 ダウン症のひとたちは「天使のよう」という表現をされるように、「思いやり」があって、感性が豊かです。それはたぶん、人類が本来生物として持っている古い脳の部分であり、情報処理のための新しい脳を発達させるためには「余分」な「制御装置」なのかもしれません。 現代人は、出生前診断と言われる「科学技術」で、それを思い出す縁すら断ち切ろうとしている・・・ そんなことを考えさせられる番組でした。 たぶん、制作意図のひとつだろうけど、他のダウン症の人たちが、表現の方法を獲得するチャンスになってくれればいいな。

解離性くも膜下出血と後遺症②

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病院で意識を回復したとき、体のどこも動きませんでした。 呼吸は苦しく、首も曲がったまま。痛みは感じなかったか、覚えていません。声もほとんど出ませんでした。 そのときの記憶は、とても漠然としています。 夢かうつつか、という感じで、たぶん見舞いに来てくれた人だと思うけれど、ときどき知人も登場しました。カーテンやシーツの印象でしょうか、雪景色の中に何か自然の展示をしたような気がしました。計器のモニターでしょう、蛍光色の緑や赤が光っている機械も見た気がします。扉が開く音が猫の声に聞こえたり、耳や目から入る情報を「使えない脳」で必死に分析していたのだろうと思われます。そして、いつからかそれは病院のドキュメンタリーになっていました。 今から思うに、たぶん自身の持っている情報の中から、大好きだった海外ドラマの「ER」(緊急救命室)をあてはめたのでしょう。自分に起こったことが理解できない、というより受け入れ難くて、客観視していたのだろうと思います。 夢とうつつの境目がなく、意識のある状態を維持できないために、わたしの言動はかなり変だったのでしょう。まわりの人たち(医療機関のスタッフとか)は「頭のいかれちゃった人」という感じだったんでしょうね。でもね、そのときの記憶はたしかにすべてつながってはいないけど、うれしかったことや悲しかったこと、つらかったこと、など印象に残ることは全部記憶に残っています。 これは「老化」による認知症といわれる人たちにも当てはまると思います。 「手当」といわれるように、人の手がもたらす安心感や温かさ。また「抑制」とよばれる手脚の束縛の悲しさ、辛さ。辛辣な言葉のショック。でも、「せっかく助けてもらった命」「自分の命は自分で守らなくちゃ」動けない身体的な辛さよりもそちらの方が自分にとっては良い体験だったのかもしれません。 今までどんなに恵まれていたか、やりたいことが何でも出来て、子どもの頃の夢がみんな叶ったこれまでの人生はしかし、すべて自分で作ったわけではなく。まわりの人たちや環境によって出来ていたのだ、という当たり前のことに感謝していないばかりでなく、気づいてもいなかった訳です。あのまま死んでいたら、たぶん気づかないままだったでしょう。脳が壊れて、感性だけが残っている状態で、他人の手の暖かさと、厳しさを同時に感じる体験は、わたしにと...

解離性くも膜下出血と後遺症①

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一年半が経ってようやく、自分の身に起きたことの全貌が見えてきました。 昨年の7月18日・・・救急搬送で近所の脳外科へ記憶はないので、あとから家族や友人たちから聞いたのですが。 その前日、7月17日は東京で「いきものつながりアート展」のためのミーティングが予定されていたようなのですが、ひどい頭痛で行けないという電話をしていたらしいです。で、その日に脳外科を受診。 CTスキャンを受けて痛みどめをもらい、帰宅したようでした。 動脈瘤ならばCTに写るらしいのですが、解離(解離性動脈瘤とも言うらしい)の場合はひび程度なので造影剤を使うか予約が必要なMRIでないと画像診断出来ないらしく、いわゆる救急外来での検査ではわかりにくいようです。 最近、その日受診することを決めたらしい血圧の測定値を発見したのですが、上が160となっていました。(血圧もコレステロールも低めだったので、平時の血圧は120前後)つまり、画像や血圧からは血管が裂ける可能性は見つからないということです。 じつは前兆として下肢の痛みや船酔いのようなめまいと、シャワーみたいな耳鳴りが一緒に起こるというのがあって、整形外科でレントゲンを撮ってもらったり、耳鼻科で検査をしてもらって「メニエール様症候群」と言われたりしていました。 それが3月ころからあった記憶があります。 そして、7月半ばまでに、その年の秋に向けて農家にパンジー種子を発送する、5月末決算のため、年度末の出納帳をパソコンに打ち込む、と年間行事のうちもっとも厳しい仕事をようやく終了した直後でした。 今考えると4,5月に犬たちを送り、4~7月は美大の講師で週に3回は東京に通っていたので事務仕事や交配・種子の整理はどうしても夜中になってしまい、慢性的に寝不足でしたね。おまけに保護司をしていたので、その合間に会合や面接、報告書の作成など何かがあって、休息する時間が全くありませんでした。 犬が元気なときは手がかかってもそれがストレス解消になったのですが、その犬が相次いでなくなり、それもストレスになってしまったと思われます。 で、受診の翌日、朝起きてこない・・・けれどあまり寝てないからもう少し起こさないでおこう・・・昼近くなってスタッフが見たらどうもおかしい・・・救急車 となったわけです。

先祖から受け継いだ記憶

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日常はそのほとんどが「慣れ」で出来ている。 「慣れ」は学習とも置き換えられ、生後その環境から習得する。 姿形は遺伝子という形骸的な伝達で決まるが、それは形だけのことなので肉体は言わば器。中身は記憶も含めて確かに伝わるのだが、それは器の遺伝子ということでなく、種として地球で経験したことも含めた記憶を、生命すべてがひとつずつ持っている、「魂」といわれるものの中に。 臨死体験後の自身の経験により、これは「量子」と呼ばれるものではないかと想像する。(勘違いかもしれないが、ミラクルで与えられた情報) それは、地球という生命体が最初から持っているもので、絶対数は決まっている。 「器」としての肉体には寿命があって、それぞれほぼ決まっているが、「量子」には決まった寿命はなく、記憶は重なってゆく。 脳で言えば「辺縁部」のごく古いところにそれはあり、「器」の経験が事故などで消えてしまったとき、活性化する。 「種としての古い記憶」そのとき、人は確かに自然の、ある一部であり、自然界で特定の役割を持った複雑なタペストリー(織物)の大切な部分である自覚があったと思われる。それは一部であって、全部である。つまり、宇宙の法則。すべては同じ種類の「量子?」で、もとは一つである。そして、安定した状態で継続するために多様性(バリエーション)をめざし、それを「織物」(曼荼羅)にすることによって、どんな事態にあってもどれかが生き残り、またバリエーションを増やせるということがみんなの目的。そして、元がひとつだから、共感や共振を「幸福」と感じる。共通の手段は「感」でわかるもの。すなわち、音や光、色や形。 「美しい」という認識も。鳥や昆虫、植物にも意志がある。鉱物は生命の基準から言ったら動かないし、魂がないというふうに感じるが、彼らも長い時を経て結晶になったり生成したりする。つまり人の一生くらいの間に動きは見えないけれど。(宮澤賢治は鉱物にも命があると考えたらしい・・・その美しさに人は惹かれる)人類はその脳の新しい部分で、「考える」ということに執着し、「感じる」ということを忘れてしまったのかも。けれども、地球上で生命として生きてゆくためには、それをとりもどさなくては。このリハビリは相当厳しいけど。 そうしないと、人間やめる前に、生物をやめることになる。そうかといって「神」になれるわ...