さとやま暮らし

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2015年9月23日水曜日

時事ネタをひとつ

最近、50年に一度の災害は毎月、あるいは毎週のように起きるし、安保法案を巡って国会が大変なことになるなど、大きなニュースのオンパレードですね。
その中でオリンピックのエンブレム問題、デザインとデザイナー、作家とアート、このあたりの解釈に大きな齟齬、というか共通認識がそもそもあるのか?という疑問がむくむく湧いてきました。

やまね工房も個人で立ち上げて今年は31年目となり、その間にはコピーされたり・・・
そもそも最初の「やまね」を作った時はほかの人たちの意見を聞いたり、形にする手伝いをしてもらったり、で、もともとのモデルは神さまが創造された自然の産物でもあるわけで。



クレーンゲームの○○ーにコピーされたときは、証拠をでっち上げてくれたけれど、大きな会社には法務部というのがあって、訴訟とかに備える術があるらしい。

で、そもオリジナルとは何か?

デザインとは何ぞや?

意匠を商業的に用いるとき、それによって金銭的な価値を生むものを「デザイン」と言い、権利が生ずるとわたしは解釈しています。

その意匠とは、デザインをする人がいったん自分の脳に取り込んで、その人が習得した技術によって表現したもの。それをオリジナルと呼ぶ。

アナログの表現であった時、その表現は手足や体の部分を使って表現していたから、その表現は人の心を動かす力を持っていたのではないでしょうか。

つまり、感性で感じる「美しいもの」を共感出来る形に表現する技術を習得するためにはもちろん才能も必要だけれど、それなりの時間や手間がかかる。

そして、それを表現するためにも、それなりの時間や手間がかかる。
むしろ、そのかかった時間そのものが、人のこころを動かすのかもしれない。

だから、ネットの世界で探すという労力とかけた時間がそれをする、といういう向きもあるかもしれません。

けれど、それに才能が要るだろうか?



若冲という江戸時代の日本画家がいます。わたしは彼の作品が昔から大好きなのですが、彼の作品からは意匠というか、商業デザインの祖という感じがします。
彼はデザインの他に作家としての作品もたくさん残していて、たくさんのスケッチや鶏たちとの日常的なスキンシップと言えるような関係がかの作品をうんだとわたしは思います。
あくなき表現への深淵な努力、膨大な素描の先にオリジナルのデザインがある。

それを百年以上時間がたっても感じさせる力が、その作品にはあるのです。

もちろん、見る側にも感性は必要ですが・・・

表現の方法として「コラージュ」とか、素材として既存の何かを分解したりして使うこともあります。

でも、そのときも表現者は表現したいテーマに沿った素材を時間をかけて探し、かつ自らの美意識に添ってコラージュするのです。

そして、それがほかの人の感性に触れてこころを動かすとき、はじめて評価されます。

だから、わたしはネット上で拾ってきた素材をデジタルで組み合わせただけのもので商いをして、それをオリジナルと言ってほしくありません。

零細製造業の、「職人ばか」のつぶやきでした・・・



画像は久しぶりに仕上げた「たぬきの子」・・・製作はスタッフのKさんで、わたしは仕上げだけ(笑い)上高地ビジターセンターへ
宇都宮、遠藤工房作「やまねたち」の仕上げは94歳になった我が家のターシャ。

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