さとやま暮らし

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2015年9月29日火曜日

ショップ お休みのお知らせ


いつも、やまね工房のぬいぐるみを可愛がっていただきありがとうございます。
10月6日(火)〜8日(木)まで 網走店をお休みします。
インターネットショップは休まず営業致します。

以上 網走店からのお知らせでした!

2015年9月23日水曜日

時事ネタをひとつ

最近、50年に一度の災害は毎月、あるいは毎週のように起きるし、安保法案を巡って国会が大変なことになるなど、大きなニュースのオンパレードですね。
その中でオリンピックのエンブレム問題、デザインとデザイナー、作家とアート、このあたりの解釈に大きな齟齬、というか共通認識がそもそもあるのか?という疑問がむくむく湧いてきました。

やまね工房も個人で立ち上げて今年は31年目となり、その間にはコピーされたり・・・
そもそも最初の「やまね」を作った時はほかの人たちの意見を聞いたり、形にする手伝いをしてもらったり、で、もともとのモデルは神さまが創造された自然の産物でもあるわけで。



クレーンゲームの○○ーにコピーされたときは、証拠をでっち上げてくれたけれど、大きな会社には法務部というのがあって、訴訟とかに備える術があるらしい。

で、そもオリジナルとは何か?

デザインとは何ぞや?

意匠を商業的に用いるとき、それによって金銭的な価値を生むものを「デザイン」と言い、権利が生ずるとわたしは解釈しています。

その意匠とは、デザインをする人がいったん自分の脳に取り込んで、その人が習得した技術によって表現したもの。それをオリジナルと呼ぶ。

アナログの表現であった時、その表現は手足や体の部分を使って表現していたから、その表現は人の心を動かす力を持っていたのではないでしょうか。

つまり、感性で感じる「美しいもの」を共感出来る形に表現する技術を習得するためにはもちろん才能も必要だけれど、それなりの時間や手間がかかる。

そして、それを表現するためにも、それなりの時間や手間がかかる。
むしろ、そのかかった時間そのものが、人のこころを動かすのかもしれない。

だから、ネットの世界で探すという労力とかけた時間がそれをする、といういう向きもあるかもしれません。

けれど、それに才能が要るだろうか?



若冲という江戸時代の日本画家がいます。わたしは彼の作品が昔から大好きなのですが、彼の作品からは意匠というか、商業デザインの祖という感じがします。
彼はデザインの他に作家としての作品もたくさん残していて、たくさんのスケッチや鶏たちとの日常的なスキンシップと言えるような関係がかの作品をうんだとわたしは思います。
あくなき表現への深淵な努力、膨大な素描の先にオリジナルのデザインがある。

それを百年以上時間がたっても感じさせる力が、その作品にはあるのです。

もちろん、見る側にも感性は必要ですが・・・

表現の方法として「コラージュ」とか、素材として既存の何かを分解したりして使うこともあります。

でも、そのときも表現者は表現したいテーマに沿った素材を時間をかけて探し、かつ自らの美意識に添ってコラージュするのです。

そして、それがほかの人の感性に触れてこころを動かすとき、はじめて評価されます。

だから、わたしはネット上で拾ってきた素材をデジタルで組み合わせただけのもので商いをして、それをオリジナルと言ってほしくありません。

零細製造業の、「職人ばか」のつぶやきでした・・・



画像は久しぶりに仕上げた「たぬきの子」・・・製作はスタッフのKさんで、わたしは仕上げだけ(笑い)上高地ビジターセンターへ
宇都宮、遠藤工房作「やまねたち」の仕上げは94歳になった我が家のターシャ。

2015年9月21日月曜日

タイムトラベル

最近、ずっと疎遠だった親戚の中に、同じ遺伝子を発見しました。

若くして亡くなった「いとこ」が、ミステリー小説を書いたり、作曲や演奏をしたものとネット上で出会ったのです。

4つ下の、彼の存在はそんなに近いものではなく、そういうことをしていた、というのは知っていたのですが、具体的には全く知りませんでした。

彼の兄弟と、正直、大人になってから始めてメールのやり取りをして、その「作品」と出会ったのです。

今度の臨死体験以来、別の人の著作の中で故人である先輩と再会したり、園芸作業の助っ人をやはり故人である「園芸の師匠」ゆかりの人が偶然手伝って下さったり・・・

記憶や人と人のつながりの中で、人は亡くなっても生きているんだな、と感じたものですが。

以前にも書いた気がしますけれど、現代美術の作家である友人と、植物をテーマにした作品について話していたときに、南半球の作家さんとの会話で地球の反対側でも、同じ時代を共有しているということで、同じメッセージを受けた気がする、というような内容があって、同じ時代に生きて同じ映像を見たり、感じた空気感を表現することには何か共通点がある気がします。たぶん、言葉によらない感覚を、言葉ではなく感性で感じることが出来るもので表現するからでしょうね。

こういう感じを得たとき、国や種族を越えた理解や共有があり得ると信じられます。

言葉にしてしまうと、謀や虚偽が混ざってもわかりにくい。

だから、感性は大切だと思うのです。

自然に対して謙虚に学ぶ姿勢があれば、その禍を避ける術を教えてくれるかもしれません。

また脱線しちゃったけど・・・

これは40年以上前に「製本」したわたしの作品です。「星新一」にかなり影響を受けています。でも、パクリじゃないですよ。オリジナルです。

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だいぶシミが出来たり、痛んでいますけれど。