さとやま暮らし

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2014年12月30日火曜日

解離性くも膜下出血と後遺症②


病院で意識を回復したとき、体のどこも動きませんでした。
呼吸は苦しく、首も曲がったまま。痛みは感じなかったか、覚えていません。声もほとんど出ませんでした。
そのときの記憶は、とても漠然としています。

夢かうつつか、という感じで、たぶん見舞いに来てくれた人だと思うけれど、ときどき知人も登場しました。カーテンやシーツの印象でしょうか、雪景色の中に何か自然の展示をしたような気がしました。計器のモニターでしょう、蛍光色の緑や赤が光っている機械も見た気がします。扉が開く音が猫の声に聞こえたり、耳や目から入る情報を「使えない脳」で必死に分析していたのだろうと思われます。そして、いつからかそれは病院のドキュメンタリーになっていました。

今から思うに、たぶん自身の持っている情報の中から、大好きだった海外ドラマの「ER」(緊急救命室)をあてはめたのでしょう。自分に起こったことが理解できない、というより受け入れ難くて、客観視していたのだろうと思います。
夢とうつつの境目がなく、意識のある状態を維持できないために、わたしの言動はかなり変だったのでしょう。まわりの人たち(医療機関のスタッフとか)は「頭のいかれちゃった人」という感じだったんでしょうね。でもね、そのときの記憶はたしかにすべてつながってはいないけど、うれしかったことや悲しかったこと、つらかったこと、など印象に残ることは全部記憶に残っています。

これは「老化」による認知症といわれる人たちにも当てはまると思います。
「手当」といわれるように、人の手がもたらす安心感や温かさ。また「抑制」とよばれる手脚の束縛の悲しさ、辛さ。辛辣な言葉のショック。でも、「せっかく助けてもらった命」「自分の命は自分で守らなくちゃ」動けない身体的な辛さよりもそちらの方が自分にとっては良い体験だったのかもしれません。

今までどんなに恵まれていたか、やりたいことが何でも出来て、子どもの頃の夢がみんな叶ったこれまでの人生はしかし、すべて自分で作ったわけではなく。まわりの人たちや環境によって出来ていたのだ、という当たり前のことに感謝していないばかりでなく、気づいてもいなかった訳です。あのまま死んでいたら、たぶん気づかないままだったでしょう。脳が壊れて、感性だけが残っている状態で、他人の手の暖かさと、厳しさを同時に感じる体験は、わたしにとってとても大きなものでした。何より「死」に対しての感覚が今まで持っていたものと全く違うものになりました。たぶん、それまでは自分のものとしてとらえることが出来ず、とても漠然としていただけだったのかもしれません。

これを臨死体験と言っていいのかはわかりませんが、とにかく、「死」はすぐそこにありました。以前、網走に滞在していたとき、谷地の底なしにはまって、抜けられなかったら・・・とか、自分の畑でトラクターの事故で死んじゃうとか、家の前なのに吹雪で遭難して死んでしまう、とか、死は身近なものだという強烈な印象を得たことがありましたが、日常の生活の中ではそれは簡単に忘れることが出来るので、すっかり忘れていたのです。

「死」をとても近くに感じてみて、恐怖は消えました。むしろ、茫漠とした時間の中で、今までの人生がいかに幸せだったか、「こころ」の安心のためには共感してくれる他者の存在が大きく、そのときの親切がどんなにありがたいか。
あのまま「死んだ」としてもわたしは「幸せ」だったと感じたものです。
負の経験も忘れる、というものではありませんが、誰かを恨むとか、仕返ししたいとか、そういうものでは決してなく。たぶん、当事者はそのとき、発言出来る状態ではないから、戻って来れたわたしは、すくなくともそういう状態のとき、記憶も感情もちゃんとあるので、どのように扱ってほしいかは言うことが出来るし、発言するべきだと思います。体験していないことはわからない・・・でも、そのために言葉があるなら、まず伝えなきゃ。伝えないで、ああしてくれない、こうしてくれない、と言っても、解決にはならないよね。

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