さとやま暮らし

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2014年8月26日火曜日

本の紹介、おかげさまで生きる

この本は東大の救急医療の先生がお書きになったものです。



この方は最近多くの似たような著作を著わされているので、ご存じの方も多いと思います。わたしは患者の立場でしたが、同じような体験をしたので共感できるところがたくさんありました。自分が出来る体験はごく個人的なことなので、普遍性や、他の人がどう感じるかはわかりませんでした。が、同じような体験をされて、同じように考える方も確かに居て、病院で見聞きしたことのいろいろは今まで漠然と考えてはいたが、自分のものとしてわかっていなかったと感じたのでした。

現実的にはいろいろつらいことが多く、もしかしたら現実逃避かもしれないけれど、わたしはそれを客観視することによって、前向きになれた気がします。
極限状態で物事を客観視するということで、何かの幸福感を得るという体験。これはみんなにおすすめ出来ることではないのですが、わたしにとってはとても幸運だったと思います。そして、感謝の気持ちやあいさつ、お礼の言葉などが、病気のときばかりでなく、老いに対しても必要だと強く感じました。一人で生きていたつもりでしたが、人類という生きものは一人では生きられないということがよくわかりました。当たり前と思うようなことですが、最近の人類は生物であることさえ忘れかけているように見えます。それは同時に自身の存在価値をも見失うことになっている気がします。他者を、食べて自身の身に付ける為でなく殺せるのは、自身の存在を否定することだと思います。

生死と真摯に向き合うことでしか得られない、生命世界・宇宙の真理みたいなものがあるのかもしれません。命がけで修行した修験者とか、命を失いかけた人とか、命のやり取りをする現場に立ち会う人とか。おかげさまで、わたしにも少しそれがわかったような気がします。同時に、運よくこちらの世界に戻って来られなくても、気持ちよく「たましい」が、この世界とさよなら出来るように、「看取る」ことの大切さ。身内、他人関係なく、意識がこの世界にあるときに、寄り添って共感してくれる存在が、「救急医療」にこそ必要だと、わたしは思います。

癌など、進行性の病では、ホスピスや「看取り」の大切さはかなり浸透してきたように見受けられます。不治の病は悲しいし、不条理ですが、それを受け入れるのにいくらか時間があります。逝くものと残るものとが共有できる「思い出」。
「思い出」だけでも、「こころ」は動くし、それはきっと、永遠に続くのだろうと思う。でも、いわゆる事故のように、ある日突然、この世とお別れしなくてはならないものにとって、その時間は無いのです。

救急医療にこそ、「看取り」は必要だと、わたしは思います。
今、このような体験をする以外では、普通の人が生死の現場を見る機会はとても少ないです。そのような現場はタブー視されているからです。体験者や現場にいる人が、それを伝える必要がある、とわたしも思います。矢作先生もたぶん、この状態に「危機感」を持っていらっしゃるのでしょう。たぶんお忙しい極地でしょうに、「これを書かなければ」という気持ちが、伝わってきました。
あとひとつ、誰しも生まれてきたものは必ず死ぬ、ということ。「死」は誰にでも平等に、しかも人類はどんなに頑張ってもたかだか100年、地球や植物の寿命に比べたら、人にとっての微生物の一生よりもずっと短いわけで。
だからこそ、誕生は無条件に歓迎されるべきだし、あの世に行くときもきちんと送られるべき、と思います。どんな命も、天寿を生きているわけだし。

もちろん、自分の親も。

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